2012年7月1日日曜日

真珠の首飾りの少女 - ベルリン国立美術館展

6月某日

金曜夜9時に新大阪駅、翌日夜9時に新大阪駅という短すぎる日程で東京まで。目的は美術館を2つ。

ベルリン国立美術館展 と 大エルミタージュ美術館展

東京駅到着後宿泊先ホテルで仮眠をとったあと(仮眠しかとれず)、翌日(土曜)の朝9時には上野に到着して、雨の中、国立西洋美術館へ。まず、ベルリン展。

開催後最初の週末ということで長蛇の列を覚悟していたが、雨だからか、100人ほどの行列だった。律儀に、静かに9時30分を待っている人たちを少し誇らしく思いつつ、開場を待つ。

開場時間になり列が進み始める。前売りチケットは購入していないので、入り口でまずチケットを買い、傘を固定させて、中へ。他の絵を素通りして、階段を上り下りして、目的の絵の前にたどり着いた。

ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の400年

ベルリン国立美術館群の傑作を集めた美術展だが、なんといっても、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」が貴重だ。

日本に来るのは初めてということもあり、「真珠の耳飾りの少女」に比べてそれほど知られている作品ではないけれど、絵としての評価は高く、フェルメールの作品としては一度は実物を目にしたい個人的トップ5に入る。

さて、絵である。フェルメールの絵と他の画家の2枚の絵のために設けられた部屋に入ってみると、絵の前にひとだかりが。およそ20人とそれほど多くはないが、背の高い人が絵の前にいるため遠くからはよく見えない。グレーの壁に小ぢんまりと「首飾り」が掛けられているのはわかるが、もっと近くでみたい。ので、諦めて同じ部屋に飾られている別の絵をまずみることに。そこは2、3人しかいないのだ。

     レンブラント派 / 黄金の兜の男 1650-55年頃

レンブラント「派」とあるのは、長年レンブラントの作品とされていたこの絵は、最近、本人のものではないと否定されたから。しかし、レンブラントの周辺にいた人物によるものであるのは間違いないということで、「レンブラント派」というクレジットがつけられている。しかし、仮にレンブラント本人でないとしてもこの絵の魅力はいささかも落ちることはないだろう。実際、プレートをよく見なかった私は、すっかりレンブラントの絵であると思い込んだまま、自宅でカタログを見るまで間違いに気づかず、そういうものとして絵を眺めて記憶して違和感はなかったのだから。

この絵の魅力はなんといっても兜と鎧の光沢。おそるべき表現技術だ。そして男の顔。それまで生きてきた人生のすべてが染みこんでいるような顔。フェルメールの絵の登場人物とは別世界の、厳しすぎる表情だ。ほぼ同時代の作品とは思えないほど隔絶した絵画世界。この兵士には当時の凄惨な戦争の傷跡が象徴されているというのだが・・・、一方の当時のオランダ(商業)社会の豊かさを証明しているのが、フェルメールをはじめとした室内画なのである。

もう一枚のレンブラント(こっちは本人作)は省略。

フェルメールの空気 ―― 真珠の首飾りの少女

さて、「首飾り」の前に立ち並ぶ人も少なくなってきたので、絵に近づいてみる(今回気づいたが、朝一のメイン画の前は一番混む。本当にその絵を見たい人たちが真っ先に向かうのだから当たり前である。つまり、朝一は避けたほうが、実は、じっくり見られるのだ)。

     フェルメール / 真珠の首飾りの少女 1662-65年頃

こうしてフェルメールの絵をみて思うのは、他の画家の絵とは決定的にどこかが違うということ。言葉では表現しにくいが、他の画家の絵が絵であるならば、フェルメールの絵は絵ではない何かであるとさえ云えてしまうほどの違いがあるように感じる。それほど特別だ。

その特別さの原因は、絵のなかの「空気」であるように思う。

ぼやっとした、はっきりとしない人やモノの輪郭。色あいも、原色そのままは一切なく、あえて云えば地味な、あいまいな色。それは、藤田令伊によれば、当時のオランダの空気の影響そのままであるという(『静けさの謎を解く』集英社新書 )。

日中の日照時間が少なく、街は建物がひしめき合い窓からの僅かな光しか部屋にそそがれないオランダの室内の薄暗さ。絵の少女は、貴重な太陽の光が差し込んだ瞬間をのがさず、贈られたものだろうか、首飾りをつけて鏡でその美しさを確かめているのに違いない。うれしそうな表情が、このどんよりとした絵の最大の魅力になっている。

そんなぼんやりした絵だから、絵でまっさきに目に入ってきたのは、少女(と書くが、原題はwomanであってgirlではない。カタログではなぜかyoung ladyとなっているが)の赤いリボン。赤というより紅色だろうが、赤系統の色はこれだけで他に青色は一切ないため、このリボンがよく目立つ。ワンポイントだから絵を支配するようなものではなく、靄に包まれたかのような絵にいくぶんかの安定を与える作用を働かせている。


そして、その下にある真珠。1m以上離れれば小さな光の反射でしかその存在を確かめることはできないが、この真珠の輝きは言葉にならないほど素晴らしい。赤のリボンと真珠が絵全体に落ち着き(物理的な)を与えているようだ。

反射と云えば、手前の椅子のビスが目立つようにいくつか光っているが、部屋の暗さや窓との角度から考えれば、ビスが現実にこのように光るはずはない。つまりそこにはフェルメールの意図がある。生涯変わらぬこだわりだと云っていいだろう。

カーテンと鏡

個人的にもっとも素晴らしく思ったのは、左の壁のカーテンと鏡。


黄色のカーテンは他の画家が描くような明確な輪郭線で描写されておらず、上でも書いたように、全体的にぼやけており、まさしく靄がかかったような感じである。一方、手前の鏡(と木枠)は影に包まれているものの直線でしっかりと描かれ、そこだけ他のすべてのオブジェクトとは違う雰囲気をもっている。色はもっとも暗いのに存在はもっとも際立っているのである。

明と暗の対照は、太陽の光をもっとも浴びているものと、もっとも太陽から遠いものとの違いである。この描き分けに感動したのは私だけだろうか。

さらに云えば、この絵の主題は真珠あるいはそれを身につける少女なのかもしれないが、そのどちらもが向けられている「鏡」こそ、ひそかな主役ではないかと思った。鏡に少女がどう映っているのだろうと想像せずにはいられない。

フェルメールの絵は「首飾り」を含めてこれまで4枚、実物をみたことがあるが、そのなかで「首飾り」が一番よかったのは間違いない。

彫刻その他

フェルメール以外にも名作(と思われる)作品が多かった。

特に、彫刻。彫刻はそれまでほとんど見たことがなく、その良さもわかったようなわからないような感じではあるが、絵画が平面であるのに対し、彫刻は当然のことながら立体で、写真で見ているだけではその魅力がほとんど伝わらないと今回知った。

展覧会ではあらゆる角度からみることができ、立ち位置によって様々な表情をみせる。


(つづく)