2013年5月27日月曜日

20世紀の美術を、駆け足で - 関西「美の饗演」

5月某日

関西にある6つの公立美術館(大阪市立近代美術館建設準備室、滋賀県立近代美術館、兵庫県立美術館、和歌山県立近代美術館、京都国立近代美術館、国立国際美術館)の所蔵作品を一堂に集めた美術展「美の饗演」展を観に、今回は電車で国立国際美術館へ。

作品は20世紀以降のもの限定であるから、要は現代美術の展覧会である。

美の饗演 関西コレクションズ


公式サイト : 美の饗演 関西コレクションズ
会期     : 2013.4.6.-7.15.
場所     : 国立国際美術館

  国立国際美術館 / 交通の便は最悪

国立・県立・市立の美術館と聞けばそれなりの作品があるのかと思いきや、総じて作品の質は低く思え、現代美術に疎いのだからかもしれないが、これといってピンと来るような作品はなかった。

でもそんなネガティブはやめにして、気に入った作品をいくつか。


(画像なし)

  フリオ・ゴンザレス / 箒を持つ婦人 1929年

ネットをくまなく探したが、この作品の画像は見当たらず。なので代わりに同じアーティストの有名らしい作品を掲載して雰囲気だけでも味わってほしい。(日本の美術館はおしなべてその所蔵作品をネット上で画像を公開していない。海外のそれと比べて、とてもだらしがないと思うのだが。)

 Julio González / Femme au miroir 1936-37年 ※参考画像

これは、スペインはヴァレンシアにあるヴァレンシア現代芸術院(Institut Valencià d'Art Modern)という美術館にある作品で、鉄を使ったオブジェクト(この作品は実物を見てみたいものだ)。miroirは「鏡」の意。

この「Femme au miroir」を参考に想像してほしいが、「箒を持つ婦人」もまた、鉄の特性をうまく利用した作品だった。

「婦人」の片腕が鉄の弓なり(わん曲)ひとつで示され、服の襞(ひだ)は硬質な鉄の鋭利で表現される。「箒」も(具体的にはもう忘れてしまったが)できるかぎり少ない鉄で構成された、緻密なのか大胆なのか、どちらとも云える表現方法だった。個人的に興味を覚える、今後も注目していきたいアーティストである(無論、物故済み)。

  アンリ・マティス / 鏡の前の青いドレス 1937年

絵自体にはあまり感心しないのだが、プレートに書かれてあった言葉に惹かれたので以下に引用する(若干語句の修正あり)。
マティスの内心には終生葛藤が巣食っていた。デッサンと色彩の分離と統合である。マティスは、自然がつねに線と色彩の融合として存在し、それを分離するのは知覚の作用だと知り抜いていた。
現象学があたりまえとなった20世紀にあっては、ごく常識的な考えである。この「知覚」を表現しえたことが偉大なのであろう。

  ジョルジョ・モランディ / 静物 1952年

今回の美術展でもっとも好かった作品がこの静物画。モランディという画家は初めて聞く名前だ。

精緻な静物画ではなく、かといって抽象画に陥ることない、いいバランスで描かれた作品であると思った。くすんだ感じがどこかシャルダンを思わせ、このような絵なら自宅の部屋に飾ってみたい。ちょうど谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」(中公文庫)を読んでいるからそう感じるのかもしれないが、ほどよい影、窓から流れてくる穏やかな日光の雰囲気が気分を楽にさせてくれるのである。

偶然とは恐ろしいもので、ネットで調べてみたら、この絵は2010年に国立新美術館で開かれた美術展でも展示されたという。その美術展のタイトルは「陰影礼賛」。こういうこともあるのだ。


いや、モランディ以上に引き込まれた絵があった。1963年生まれの現役画家ミヒャエル・ボレマンスのふたつの作品。


  ミヒャエル・ボレマンス / Automat (3) 2008年 木版

20センチ四方の小さな木版に描かれた人物画。人物画と云っていいのかわからないが、手を後ろにやった女性の後ろ姿が不思議な絵だ。あまりに小さいので、別の美術館にある(1)も掲載する。


  Michaël Borremans / Automat (1) 2008年 カンバス 
※参考画像


(1)と(3)の違いは木版とカンバスの差ぐらいで、ほとんど同じようなタッチで描かれている。そして、左右対称となっているのが面白い。画像も大きいから(1)のほうでよくわかると思うが、ボレマンスの絵は独特のつや感があって、それは絵具のつやというよりも明暗のつけ方が原因だろう。ベタ塗りで地味と云えば地味な絵なのに意外な高貴さが感じられるのがいい。

さらに、この大きな画像をみていま気づいたが、この絵の女性には「両足がない」のだ。少し浮かんでいるようにも見える。おそらく(3)もそうなのだろうが会場では気づかなかった。どんな意図が込められているのだろう? ちなみに、Automatは「自動販売機」のことである。

ボレマンスのもうひとつの作品。

  ミヒャエル・ボレマンス / The Trees 2008年

ごくふつうの絵である。20世紀の作品ばかりをみていると、「ふつう」がとても新鮮に感じられる。なぜこの作品が「The Trees」というのかは無論、知るところではない。

コレクション1

特別展「美の饗演」の上の階(B2)では所蔵作品を展示する「コレクション1」展が開催されていたので、特別展入場者は無料だからいつものようにざっと見て回る。

どうでもいいような作品ばかりだったが、ひとり、気になる画家がいた。

館勝生(たち・かつお:1964-2009)。

  館勝生 / December. 30. 2008 2008年

ポロックのパクリかと思えなくもないが、ポロックがそうであるように、ただ乱雑に絵具を投げつけている絵ではない。どこか(感覚的に)計算されているような印象を受ける。近くて見るとよくわかるのだが、絵具のハネが実にきれい。「具体」グループの頭の悪い絵とは根底的に違うのだ。

生没年からわかるように、彼は若くして亡くなった(ガンだという)。アトリエは豊中市にあったらしく、私の地元だったりする。そのことの影響は受けないが、彼の作品にはとりわけ興味を覚えた。

  館勝生 / the smoke of the incense 1998年

「incense」は「香り」。

勢いのなかにもしっかりと具象(形)がとらえられており、無意味を押し付ける画家の傲岸を軽蔑しているかのようである。もっともそれは瑣末なことで、なにより絵としての唯一性が感じられる。彼にしかできないそれというだけでなく、具体性というそれのことである。

館勝生の作品は、もう新しいものは生まれないが、これからも探していきたい。



冒頭に「ピンと来る作品はなかった」と書いてしまったが、こうしてあらためて振り返ってみると、いくつかの大きな収穫があったのかもしれない。

フリオ・ゴンザレス、モランディ、ボレマンス、館勝生の作品はとても優れていると感じられるし、4人の画家(アーティスト)の存在を知ることができただけでも(彼らの作品を間近で独占的に観ることができただけで)充分、行った甲斐はあったろう。

いまや、もう一度行ってみようという気にさえなっている。いや、行こう。





2013年5月4日土曜日

読書と知識-ハイエク(の伝記)を読む

5月某日

ラニー・エーベンシュタイン『フリードリッヒ・ハイエク』(春秋社)を読んでいて、ハッとした箇所があった。数日前に読んだ本に書かれていた言葉とよく似ていたからである。

では、何を読んでいたかであるが、現時点でなぜか思い出せない。(まったくバカバカしいことだが)もしかすると同じ本の同じ箇所に反応したのかもしれない。この箇所を見つけたのは(数ページ前を)再読していたときだからあながち有り得ない話ではないが、別の本のはずであるというそれなりの確信をまだ捨てることはできない。

その先に読んだ(架空かもしれない)本の内容はこうだった。

読書する人にはふたつのタイプがあって、本から知識を得るために読む人と、本と一体化して読む人とがいる。前者は学者に向いているのに対し、後者はあまりに深く本の中に取り込まれるためどんな本を読んだのかを相手にうまく説明することができない、というような話である。

ではハイエクの伝記にはどう書かれているか。著者エーベンシュタインによれば、ハイエクがノーベル経済学賞を受賞したあとに書いた半自伝的エッセイ「知性の二つのかたち」には、次のような言葉があるという。
「世間一般に認められるタイプの研究者は記憶型と言える。彼らは読んだり聞いたりした特定のことを覚えていられる、特に、あるアイディアを説明した用語についてはそのまま記憶に留めておくことができる」。このようなタイプは「その分野の大家」となる。自分については、それとは対照的に、「通常のタイプに当てはまらない、かなり違うタイプ」で、いわば「疑問型、他の人たちなら難なく即座に解決にたどり着くヒントになる一般的な公式や論理を用いることができないことから、常に困難に陥ってしまうタイプだ。ただ、このようなタイプは稀に、新たな洞察力を得て報われることがある。頭がこのように動く人々は、言葉を伴わない思考プロセスに頼る面がある。何らかの関連性が明確に「見えた」としても、それを言葉で表す方法を知っているとは限らないのだ」。
こう引用した後、著者はハイエクの思考の特徴をこのようにまとめる。

<「その分野の大家」は言語で表せる知識を有する者で、「疑問型」は直感的な知識を有する。知識は、少なくとも最初は言葉で表せるものではない。知識は、それを表す言葉がまだ見つけられていなくても存在する。><「明示的」な知識と「暗黙的」な知識の問題は、ハイエクの自生的秩序という概念の形成においては不可欠のものとなった。>

本書の注記にはさらに、同じような考え方として、ハイエクが敬愛したデイヴィッド・ヒュームの言葉が引用されている。(David Hume"Essays Moral, Political, and Literary")
人類は大きく二種類に分けられる。真実にたどり着けない浅知恵タイプと、真実を超えてしまうほど深遠な思索家タイプである。後者は稀にしか見られないが、役に立ち、存在意義が高いのはこちらの方だと言っておこう。このタイプは少なくとも何かを暗示するようなことを言い、困難に取り組もうとして、それを突き詰める技術を得ようとする。(中略)最悪の場合でも、このタイプの言うことはこれまで聞いたことがないようなことで、理解するには苦労するかもしれないが、何か新しいことを耳にしたという喜びは得られる。コーヒーを飲みながらのおしゃべりからでもわかるようなことしか言えない作家に価値はない。

ほとんど同じことを云っているようなものだ。ハイエクがどれほどヒュームの影響を受けたかが、これで知られる。

……というわけで、もしかすると同じ本をデジャヴしてしまったのかもしれない。