2013年5月4日土曜日

読書と知識-ハイエク(の伝記)を読む

5月某日

ラニー・エーベンシュタイン『フリードリッヒ・ハイエク』(春秋社)を読んでいて、ハッとした箇所があった。数日前に読んだ本に書かれていた言葉とよく似ていたからである。

では、何を読んでいたかであるが、現時点でなぜか思い出せない。(まったくバカバカしいことだが)もしかすると同じ本の同じ箇所に反応したのかもしれない。この箇所を見つけたのは(数ページ前を)再読していたときだからあながち有り得ない話ではないが、別の本のはずであるというそれなりの確信をまだ捨てることはできない。

その先に読んだ(架空かもしれない)本の内容はこうだった。

読書する人にはふたつのタイプがあって、本から知識を得るために読む人と、本と一体化して読む人とがいる。前者は学者に向いているのに対し、後者はあまりに深く本の中に取り込まれるためどんな本を読んだのかを相手にうまく説明することができない、というような話である。

ではハイエクの伝記にはどう書かれているか。著者エーベンシュタインによれば、ハイエクがノーベル経済学賞を受賞したあとに書いた半自伝的エッセイ「知性の二つのかたち」には、次のような言葉があるという。
「世間一般に認められるタイプの研究者は記憶型と言える。彼らは読んだり聞いたりした特定のことを覚えていられる、特に、あるアイディアを説明した用語についてはそのまま記憶に留めておくことができる」。このようなタイプは「その分野の大家」となる。自分については、それとは対照的に、「通常のタイプに当てはまらない、かなり違うタイプ」で、いわば「疑問型、他の人たちなら難なく即座に解決にたどり着くヒントになる一般的な公式や論理を用いることができないことから、常に困難に陥ってしまうタイプだ。ただ、このようなタイプは稀に、新たな洞察力を得て報われることがある。頭がこのように動く人々は、言葉を伴わない思考プロセスに頼る面がある。何らかの関連性が明確に「見えた」としても、それを言葉で表す方法を知っているとは限らないのだ」。
こう引用した後、著者はハイエクの思考の特徴をこのようにまとめる。

<「その分野の大家」は言語で表せる知識を有する者で、「疑問型」は直感的な知識を有する。知識は、少なくとも最初は言葉で表せるものではない。知識は、それを表す言葉がまだ見つけられていなくても存在する。><「明示的」な知識と「暗黙的」な知識の問題は、ハイエクの自生的秩序という概念の形成においては不可欠のものとなった。>

本書の注記にはさらに、同じような考え方として、ハイエクが敬愛したデイヴィッド・ヒュームの言葉が引用されている。(David Hume"Essays Moral, Political, and Literary")
人類は大きく二種類に分けられる。真実にたどり着けない浅知恵タイプと、真実を超えてしまうほど深遠な思索家タイプである。後者は稀にしか見られないが、役に立ち、存在意義が高いのはこちらの方だと言っておこう。このタイプは少なくとも何かを暗示するようなことを言い、困難に取り組もうとして、それを突き詰める技術を得ようとする。(中略)最悪の場合でも、このタイプの言うことはこれまで聞いたことがないようなことで、理解するには苦労するかもしれないが、何か新しいことを耳にしたという喜びは得られる。コーヒーを飲みながらのおしゃべりからでもわかるようなことしか言えない作家に価値はない。

ほとんど同じことを云っているようなものだ。ハイエクがどれほどヒュームの影響を受けたかが、これで知られる。

……というわけで、もしかすると同じ本をデジャヴしてしまったのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿