2013年11月10日日曜日

ある理想家について - ターナー展 東京都美術館 ・・・東京物語2

11月某日

三菱一号館美術館のあとは、いったん宿でチェックインをしてから、徒歩で東京都美術館へ。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)。

その作品を初めてみたのは、昨年(2012年)12月、Bunkamuraザ・ミュージアムは「巨匠たちの英国水彩画展」でのこと。

渋谷は東京に住んでいたときもっとも馴染みのあった街だけど、このミュージアムにはついぞ足を運んだことはなかった。昨年も水彩画に特別な関心があったわけではなく、ちょっと寄ってみるかぐらいの気持ちで訪れたのだが、地味な美術展なのにいくつか印象に残る絵が展示されていた。その1つがターナーの水彩画である。

  ターナー / 旧ウェルシュ橋 1794 ※展示なし

えっ、これが水彩画なのですか? と、にわかには信じられない作品。ポストカードも買ったお気に入りの絵で、当時のメモを引用すれば、「見たものをただ写しとっただけではない情景。水面に写る船などの地上物、そして水紋のようなものは水彩を超えている」。手前の橋が古く朽ち果てた旧来の橋で、向こう側に新しくかけられた橋が垣間見える。なんとも物悲しい光景である。

英国水彩画展は展示される多数のうちの1人にすぎなかったが、ターナーの個人展が都美で開催されるというので、これはぜひにと行ってみた。

ターナー展 - 東京都美術館

公式サイト : ターナー展
会期     : 2013.10.8.-12.18.
場所     : 東京都美術館


日曜の夕方だけれど館内にはそこそこの人がいた。でも一人で一枚の絵を独占できるほどには空いている。ターナー展は年明け1月に神戸市立博物館に巡回するので、つまり、そちらにもおそらく行く予定であるから、今日は肩肘張らずリラックスして観てまわるつもりだった。だからカタログはまだ買っておらず絵の詳細な背景などは皆目わからないため、以下、間違っている点、勘違いしている解釈があればご容赦願いたい。

  ターナー / 嵐の近づく海景 1803-04 油彩

これは東京富士美術館所蔵のもの。まだ正気(?)を保っている時期の作品で、のちに出てくる強烈な絵の世界をつくった同じ画家とは、いま振り返れば思えない。古典主義的な緻密な描写が特徴。

廃墟のわきで水を飲む水牛」(1800-02年・水彩)は画像をみつけることができなかったが、遠目からはとても水彩とは思えない迫力の絵で、油彩より硬く、かつ柔らかく描かれていたと表現したい。矛盾しているけれど。

  ターナー / 座礁した船 1827-28 油彩

だんだんターナー「らしく」なってきた。すべてが白く輝く、「終わり」のあとの光景である。穏やかな波の音だけが聞こえてきそうだ。「嵐の近づく海景」とは似ているようでいて、作品間の20年の歳月が確実に感じられる違いもみてとれる。嵐の前と後という違いではなく、視線が前なのか後ろなのかというぐらいの差がある(ように思える)。

この美術展は初期から晩年までの作品が一堂に会しており(ほとんどがテート・ギャラリー所蔵)、ターナーの人生とその変遷が味わえる構成となっている。おそらく1枚1枚の絵の物語をたどっていけば、それはすなわちターナーの人生の物語となるはずだ。

月刊誌「美術手帖」が2013年11月の増刊号で「特集 ターナー」を出していたことを、いま思い出した。もちろん買っていた。カタログの代わりにこの雑誌を手元に置いて続きを書いてみたい。

「美術手帖」を読んでいて真っ先に目がいった絵は自画像。

  ターナー / 自画像 1799頃 油彩 ※展示なし

本展に来ていなくて最も悲しむべき絵である。上にあるような絵を描くであろう人物と、自画像のなかなか男前な風貌と、一見、重なり合うものはない。しかし、この自画像が帯びる暗さはどういうことだろう。

24歳ほどの若者が描く絵としては驚くほど若さが感じられず、なにかルサンチマンのような感情が伝わってくる。それは上目がちの視線や、画面全体の薄暗さにあらわれる。自分がこの世、この社会から消えていってしまうかのような。あるいは逆に、闇の世界からこっちの世界を覗いているような。そこには、貧しい少年時代を経験したことや異常なまでの上昇志向が背景にあるのではないかと思った。



(つづく)

2013年11月9日土曜日

近代への眼差し 印象派と世紀末美術 - 三菱一号館美術館  ・・・東京物語1

11月某日

友人の結婚式出席を兼ねて、東京へ美術の旅に。

1日目に2つ、2日目に1つ(+結婚式)、3日目に2つ、とかなり押し詰めたスケジュールだったが、それはそれは素晴らしい3日間となった。あらかじめ入念にスケジュールを組んで、ルートも最短を選んだのでスムーズに回ることができた。

近代への眼差し 印象派と世紀末美術 三菱一号館美術館

  チラシをもらい忘れたのでニューズレターを

公式サイト : 三菱一号館美術館名品選2013 -近代への眼差し 印象派と世紀末美術
会期     : 2013.10.5.-2014.1.5.
場所     : 三菱一号館美術館

羽田から浜松町、そのまま東京駅へ。

改装あいなった東京駅舎を軽く一瞥。設計の辰野金吾(東大建築学科で日本人初の教授)は大の相撲好きで知られ、この駅舎は横綱の土俵入りを模したものであるという話を聞いたことがある。正面に回らないとわからないのだが、面倒なのでパス。


さて、荷物をそのまま抱えて徒歩で三菱一号館美術館へ。


ここは2回目に訪れる。あらてめて思うが、この建物自体が美術品のようなもので、いつまでもずっとそのままでいてほしい。


事前に調べたところではルノワール以外に見所なし。実際、それ以外にとくに見所はなかった。

  ルノワール / 長い髪をした若い娘 1884

顔の肌の艶がとても美しい(これだけは他の画家には真似ができない)。顔以外の髪や服装、背景の流れるような筆致とは対照的である。顔もよく見れば、大人っぽい瞳と全体の童顔がアンバランスであり、実際のモデルとなった少女からはたぶん大きく離れた肖像となっているのではないか。

ルノワールの他の作品の瞳と違わないのだろうけど、少女の瞳は怜悧で尊大な性格もうかがえ、少し幸福そうでない印象が感じられる。怪しく寂しげな少女である。

それ以外に見てよかったのは、ジュール・シェレの「ダンス」(1893年)という作品。画像はネット上で見つけられず、どんな絵だったかはっきり覚えていない。そのときのメモをそのまま書けば、天使と悪魔、女と男、清純と強欲を対比させたリトグラフで、美しいレイアウトとタッチがとてもよかった(気がする)。

あと一人、フェリックス・ヴァロットンという人の一連の作品。

ヴァロットンのアカデミー・フランセーズの会員をカリカチュア風に描いた絵が笑っちゃうほど本人によく似ていて、もちろん描かれた本人を知っているわけではないのだが、知らないのに、あぁこういう人だよねとつい頷いてしまう、そんな絵である。展示作品は見つけられなかったが、下の絵のような感じ。

 Vallotton / Caricature Portrait of Jules Barbey d’Aurevilly 1893 ※展示なし

この美術展には、デュマ・フィスアルフォンス・ドーデーなどが展示されていた。新聞に載っていそうな風刺絵はとても技術力の高いもので、彼らの小説などに添えてもらいたいくらいである。ちょっと欲しかった。




  2012年開催のシャルダン展カタログ

昨年訪れたシャルダン展で購入しなかったカタログ。それから後悔したので、ついでに買っておいた。


ちょっと追記。

三菱一号館美術館の館内で絵を観て回っているときに妙齢の女性が突然バタン!という音をたてて私の近くで床に倒れた。直接見たわけではないが、その音からは頭を打ったように思った。

女性は幸いにも意識があって外傷も見られなかったが、美術館の館員が集まり女性と連れのお孫さんと話をしている。本人は「大丈夫です、このままじっとしていれば起き上がれますから」と館員に云っており、館員もあまり動かすよりは…と、用意した車椅子を使わずにいた(女性もこういうことは慣れているのか、車椅子はいりませんと云っているようだった)。

たしかにこの場合、身体を動かすのは危険である。しかし、女性を床に寝かせたまま様子を見るのはよくないのではないかと思った。万が一、頭の中で出血していたら…。そこで、館員の方に、お孫さんには聞こえないように、「頭を打っているようですから、救急車を呼んだほうがいいと思います」と伝えた。おそらく救急車は来なかったはずだ。

幸いにして女性は間もなく自分で起き上がり、椅子で休憩できるようになった。そしてなにより幸運だったのは、三菱一号館美術館の床が従来の板張りにかえて最近じゅうたんになっていたことだ。床の板に頭を打ち付ければ、悪い方向へいっていたかもしれない。

女性が立ち上がり、絵を観はじめても、ちょっと安心できない気持ちで私はいた。ほんとうに救急車を呼ばなくてよかったのだろうか。無事、自宅まで帰れたとしてもそれから容態が急変することがあるかもしれない。その女性はいまも元気でおられるのだろうか、ずっと気になっている。


次=ある理想家について - ターナー展 東京都美術館 ・・・東京物語2