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2012年3月27日火曜日

フェルメール、近代日本思想、父子(並べただけ)

3月某日

藤田令伊『フェルメール 静けさの謎を解く』(集英社新書)を読む。

藤田 令伊
集英社
発売日:2011-12-16

以前書いたように、フェルメールと同時代の画家、テル・ボルフやデ・ホーホをとりあげているのが特色だが、それだけではなく(メインの)フェルメールの絵の分析の仕方もとても面白い。

フェルメールの絵がなぜ独特の「静けさ」をもっているのか。

フェルメールは初期作品を描き上げた当時から作品を経るごとに使用する色の数を徐々に減らしていき、並べる調度品の数も極力少なくすることで、絵は寂しさを感じさせるほどの静けさを帯びるようになった。

加えて、「青」という当時では珍しい色をふんだんに使ったフェルメールは、驚くほどの落ち着いた佇まいを絵に与えることができた。青は、観る人の感情を鎮める効果がある。それは現代の科学的実証によっても証明されているという。フェルメール自身が感性として知っていたのだろうそれが、現代人にも好かれる彼の絵の魅力となっているのだ。

まだ3分の1しか読んでいないが、これはばつぐんに面白い本だ。読めば読むほど、フェルメールの凄さがわかってくる(「手紙を読む青衣の女」にこれほど緻密な計算がされているとは。実物をみたときには全然きづかなかった)。いま紹介した話は一例にすぎない。

3月某日

大澤真幸『近代日本思想の肖像』(講談社学術文庫)を拾い読み。

大澤 真幸
講談社
発売日:2012-03-13


著者の考えは少し自分とは合わないなとこれまで思っていたが(いくつか読んだことがある)、この批評文はとてもいい。

先日亡くなった吉本隆明から、柄谷行人、漱石などが取り上げられていて、とりあえず、漱石の『それから』とポリフォニーのところなんかを読んでみた。この本は最後まで読みたい。

ちなみに、昔購入した大澤氏の『恋愛の不可能性』は積読されたまま10年以上過ぎている。

3月某日

坪内祐三『父系図』(廣済堂出版)を購入。まだ1ページも読んでいない。が、連載されていたWEBサイトではときどき読んでいた。辰野金吾・隆父子の話がもっとも興味をそそられる。

坪内 祐三
廣済堂出版
発売日:2012-03-09



2012年3月23日金曜日

ペダントリー - アルフォンス・ミュシャ館

3月某日

大阪は堺市にある アルフォンス・ミュシャ館 に行ってみる。

画家ミュシャについてネットで調べてみたら、ミュシャの絵を集めたコレクションのひとつが日本に、しかも大阪にあるという。

一般にそれは「ドイ・コレクション」と呼ばれる。

「ドイ」というのはカメラのドイの創業者である土居君雄のことで、彼はミュシャの知名度がそれほどでない頃からミュシャの絵を個人的に蒐集していた。遺族が堺市に寄贈したものが「ドイ・コレクション」だ。

アルフォンス・ミュシャ館

その「ドイ・コレクション」を所蔵するアルフォンス・ミュシャ館では年に3回、それぞれ4ヶ月の期間をひとつの企画展にあてている。

現在は「デザイナーとしてのミュシャ」展が3月17日から7月8日まで開催されていて、「伝統と革新の間で揺れた彼のデザイナーとしてのスタンス」をメインテーマに約80点の作品を展示している。所蔵作品は約500点にのぼるらしいが、各企画展ではそのうち80点ほどが公開される方式となっているため、すべての作品を同時に観ることはできない。個人的には3月11日まで開催していた「ミュシャと祖国チェコ」展のほうに関心がそそられるのだが・・・存在を知るのが数日遅かった。




館内で写真を撮ることは当然できないので、入り口近くの壁にかかっていた(印刷の)ミュシャの絵。照明と壁の色にあるように、ミュシャの絵に合う黄土色をベースとした色調の内装は、落ち着いていてとてもいいと思う。


ミュシャの芸術性

実はアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)については全く何も知らない。絵をネットで見ただけである。そんな些少な知識によれば、ミュシャの絵の特徴は「描線」(身体の線)であると云える。

ほとんどが描線で描かれるミュシャの絵はマンガと見間違えるほどで、そのせいか、日本でとても人気がある。有名なのは「ヒヤシンス姫」だろう(今回は展示されていない)。

     ミュシャ / ヒヤシンス姫 1911年 ※展示なし

絵の印象からミュシャ本人も現代的、即時的な(つまり商業的な)人物なのではないかと思われるかもしれない。事実、私もそう思っていた。だが、館内で最初に目にとびこんできた絵を観た瞬間からその先入観は吹き飛んだ。

     ミュシャ / 瞑想 1896年

照明が暗めだったため、実際はこの画像よりももっと陰鬱な印象を受ける。暗闇のなかでうな垂れる少女が絶望しているように見えた。いったい、「ヒヤシンス姫」のミュシャと、どうつながるのだろう。

そもそもミュシャは、最初からグラフィックアート的な絵を描きたかったのではない。歴史画や宗教画の画家を目指していたのだ。

今回の企画展のパンフレットにはこうある。「幼い頃から絵を描くことが得意であった彼は、宗教画や歴史画といった古典的な絵画を描く画家に憧れて故郷を旅立ち、ミュンヘンやパリの私立アカデミーに学びました」。しかし、資金的な問題から学業を続けられず、やむなく雑誌などの挿絵の仕事をはじめた。偶然、パリの舞台女優サラ・ベルナールのポスター制作(「ジスモンダ」)を手がけたのをきっかけに、ポスターや装飾などのグラフィックアートの世界で活躍することとなる。

     ミュシャ / ジスモンダ 1895年 ※展示なし

しかし彼は、世間がその旗手とみなしたアール・ヌーヴォー(新芸術)の画家であるという自覚はなかった。正統な画家でありたいという信念は変わらなかったのである。それが作品「瞑想」にあらわれている。(無料パンフレットにはこの作品への解説が載っておらず、会場の絵の説明文もメモしていないので、詳細は忘れた。)

     ミュシャ / 「白い象の伝説」挿絵 1893年

この挿絵の精緻さからはミュシャの絵の技術の高さがはっきりと伝わってくる。そんな裏づけがあってこその、彼のグラフィックアートだったのかもしれない。

ミュシャの絵に冠される象徴主義や、ミュシャの歴史画などについては、次回ミュシャ館に行ったときにまとめたい。


※参考ページ※

堺市立文化館 アルフォンス・ミュシャ館 公式サイト
ミュシャを楽しむために (個人サイト)


作品集

今回の企画展で気にいったものをいくつか。(本ブログでは実際にできるだけ近い色合いの画像を選んで掲載しています。)

     ミュシャ / 百合の中の聖母(習作) 1904年

この作品がもっとも印象に残っている。もう一度観たい絵だ。

     ミュシャ / メディア 1898年

     ミュシャ / ハムレット 1899年

     ミュシャ / モナコ・モンテ=カルロ 1897年


カタログとポストカード

今回の企画展オリジナルのカタログは見当たらなかったので(あった気もするが簡易なものだったので)、販売していた生誕150年の企画展カタログを購入。

生誕150年記念「アルフォンス・ミュシャ展」図録 2010-2011年
/ 2,300円


無料のパンフレット(ミュシャ館の広報誌)とポストカード2枚。

「宵の明星」と「明けの明星」(右上)と「メディア」ポスター(右下)
/ 各120円





2012年3月3日土曜日

リアル天皇論-橋本明『平成皇室論』

12月某日

古本屋で手に入れたまま積読されていた橋本明『平成皇室論』(朝日新聞出版)を読む(といっても、読んだのは12月)。

平成皇室論 次の御代へむけて
平成皇室論 次の御代へむけて

本書の内容は、今上の皇太子時代から現在までの歩みを丹念に追った伝記という側面と、現今にあって天皇とはいかにあるべきかという現代天皇論という側面があり、その両面をうまくまとめて書かれている。ひとえに、著者の眼の良さ、つまり批評眼の確かさが本書の信頼性を担保しており、なかなか読み応えがある。

とくに印象的だったものを紹介すれば、戦後の皇室にあって「皇太子妃」「皇后」の立場の難しさについて詳しく書かれている。それはつまり、美智子皇后がいかに苦労してきたかということだ。

美智子皇后は入内以来、旧皇族・旧華族から猛烈な批判ないし苛めを受けた。平民出身がなぜ皇室に、しかも皇太子妃におさまるなんて・・・という人間特有の感覚=階級意識である。厳しい立場に置かれた美智子妃に手をさしのべることができるのは、皇太子しかいない。いや、絶対に認められなくてはならないというご自身の努力しか、それらの声を消すことはできなかった。その努力のすさまじさは、なまなかに表現できるものではないだろう。現在、誰にも皇后として受け入れられている結果がただ、それを示唆するだけだ。(それはもちろん、雅子妃のふがいなさを逆照射することになってしまうのだが。)

意外だったのは(よくよく考えれば意外でも何でもないのだが)、三島由紀夫が皇太子同妃時代の両陛下と直接歓談したことがあり、だがその後、三島は両殿下の批判を展開したのだという。皇室の神聖を信じる三島は週刊誌などで両殿下の姿が派手に紹介されることに苛立ちをみせた。昭和天皇の非人間性を尊び、両殿下の普通の人間性に不安を覚えたのだ。三島のみならず、その批判には村松剛や黛敏郎なども加わっていた。

両陛下は皇太子同妃の時代、保守派とされる人々からも批判を受けていたのだった。美智子妃と結婚した頃、皇太子を知る旧友たちから皇太子の頼りなさを心配する声があがっていたという話は聞いたことがある。皇太子が美智子妃にべた惚れだったからだ。

(つづく、かも)