ページ

2012年8月26日日曜日

ドビュッシー展でマネを観る - ブリヂストン美術館

8月某日

3泊4日で東京へ。目的は、初日に行ったマウリッツハイス美術館展なのだが、まず最終日のレポートから。

たしか駅の構内かどこかでチラシをみてこれは面白そうだと思って急遽行くことにしたのが「ドビュッシー、音楽と芸術」展。場所はブリヂストン美術館で、午前中にいた国立新美術館のインフォメーションでその場所を聞いたら親切にも教えてくれた(ありがごうございました)。

地下鉄で京橋駅に到着して駅からとぼとぼ歩いていると、わき道に画廊がいくつか見えた。せっかくなのでひとつぐらい寄っていこうかとウインドウ・ウォッチングをしていると気になる絵(版画)が飾られていた画廊があったので入ってみる。

千代春画廊、笹本正明の個展だった。

   笹本正明 / 羽化 ※展示なし

こんな絵がいくつか飾られていた。絵と笹本正明の名前をどこかでみたような気がするのだが思い出せない。1966年生まれということもあり、現代的な絵のつくりが感じられ、気に入ってしまった。展示されている絵には数十万の値札がついていたので眺めるだけだったが、カレンダーが販売されていたので購入。



暦として使うよりも飾るに相応しい絵の美しさと質感である。どこかミュシャを想像させるタッチだが、よくは知らない。

さて、寄り道したが、ブリヂストン美術館へ。

ドビュッシー、音楽と芸術 - ブリヂストン美術館



公式サイト : ドビュッシー、音楽と芸術 印象派と象徴派の間で

この美術館はもちろん初めて。日本橋のすぐ隣にあり、東京駅八重洲口から徒歩圏内というすごい場所にある。それでも、広さは十分なものだ。

印象派の絵画がたくさんあるらしいと期待して中に入ったが、これがスバリ当たりであった。

ポスターに採用されているルノワールは個人的にどうでもいいのだけど、なんといっても、マネのこの2作品が飾られているとは見た瞬間に驚いた。

   エドゥアール・マネ / 浜辺にて 1873年 オルセー美術館蔵

   エドゥアール・マネ / ステファヌ・マラルメの肖像 1876年 同

まさかオルセーからこの絵をもってきたとは、仰天。他の鑑賞者は仰天したふうには見えなかったが、少なくとも自分はこれらの絵をみたとき、ちょっと驚きの声をあげてしまったほどだ。

どちらも本で見て知っただけの絵で、特別傑作であると認められている絵ではない。だが、知っているというだけで、実物を観たときの感動は否が応にも増すものだ。

「浜辺にて」の方は、拡大しないとわかりにくいが女性のかけているレースの描き方の素晴らしい。そうか、このようにも描けるのかと感心する。モネ「日傘をさす女性」(1875年)にあるレースを彷彿とさせるが、マネのほうが2年早いということは、モネはマネの作品を参考にしているのかもしれない。

クロード・モネ / 日傘をさす女性 1875年 NGAW蔵 ※展示なし

もうひとつ、マラルメの肖像はマラルメの名が大きすぎて、作品自体についてはよくわからない。しかも、マラルメの人となりをよく知らないのだから、こういう人だったのかという感想しかないのだが、この肖像画はたびたび紹介されるものであるから、その意味で貴重なものを観ることができた。

他の作品について挙げるならば、まずカイユボット。

昨年のワシントン・ナショナル・ギャラリー展で初めて遭遇して以来、独特のリアリズム表現が印象に残っているカイユボットの作品が1点飾られていて、なんでも最近ブリヂストン美術館が購入したものであるという。

   ギュスターヴ・カイユボット / ピアノを弾く若い男 1876年

いいものを買ったな、と石橋財団に伝えたいほどいい作品。鮮明な画像が見つからなかったが本物はもっときめ細かく美しく、とりわけピアノの漆黒に壁紙の模様が見事に映りこんでいる。その映り込みによって黒の固さが和らげられ、絵全体がひとつの柄に包まれている感じを与える。ため息がでるほど綺麗な絵である。

また、個人的に関心のあるドニの絵も複数あったがいまいちピンとこなかったため印象には残っておらず、むしろ、初めて観る絵としてルロールが良かった。

アンリ・ルロール / 肘掛け椅子のある室内 1890年頃 個人蔵

アンリ・ルロール / 室内、ピアノを弾くルロール夫人 1890年頃 同

いずれも個人が所有しているもので公開されることは少なく、画像もネット上ではほとんど見つけられなかったため、ミュージアムショップで購入したカタログを撮影してみる。

2つのなかでは特に上の「肘掛け椅子のある室内」がしっとりした趣きがあってお気に入りだ。奥には裁縫をしていると思われる女性がひとり座っているのだが、実際にこの光景に遭遇したとすれば誰しもつい眺め続けるであろう、どこか温かみのある家庭の様子。その温かみを十二分に、この絵は伝えてくれる。下の絵と比べて、通りしな偶然出会った光景といった感じがして、とてもいい絵ではないだろうか。

その他、印象的だった絵をいくつか並べる。

 ウジェーヌ・ブーダン / トルーヴィル 1865年 ブリヂストン美術館蔵

   ウィンスロー・ホーマー / 夏の夜 1890年 オルセー美術館蔵

   ギュスターヴ・モロー / 化粧 1890年 ブリヂストン美術館蔵

モローのほうはカタログに掲載されていないが、間違いなくあった。常設展のほうにはなかったような気がするが、よくわからず。

ほんとうは初めてみるバーン=ジョーンズ(複数あった)に拘りたかったのだけど、当日は気分的にみる余裕がなかったため、省略。惜しいことをしたかもしれない。

  「ドビュッシー、音楽と芸術展」カタログ 2012年 2500円




2012年8月12日日曜日

現代美術のわからなさについて - 「リアル・ジャパネスク」 国立国際美術館

8月某日

大阪は中之島にある国立国際美術館に行ってみた。


公式サイト:国立国際美術館

この美術館は地下にあるというのが特徴で、入り口だけ地上に出ているという風変わりなところ。


正面はこんな感じ。地下にあることの有難味はよくわからない。建築費は高額だろう。

国立国際美術館の英語表記はThe National Gallery of Art, Osakaとなっていて「国際」にあたる単語がないのも気になるが、英語だけをみるとワシントン・ナショナル・ギャラリー(The National Gallery of Art, Washington)と同じ表記方法(英国のものは措く)。同じ位置づけ=国立であるということだが、米国は一般市民の寄付によって成り立っているのに対し、大阪のこの美術館はきっと国費に違いない。それだけに、期待を上回ってほしい美術館と云える。

さて、この美術館は初めての訪問で、現在開催中の展覧会は「リアル・ジャパネスク」「私の〈解体〉へ」、そして常設展=コレクション展の3つ。

「私の〈解体〉へ」というのは柏原えつとむという人の個人展。現代芸術をまったく知らない私には聞いたことのない名前だ。

「私」という一人称を「解体」する、というのは、ポストモダンにありがちの脱構築的な、要は浅薄な感じがしたためちらっと見ただけで終わりにした。いまさら脱構築だなんて……と、このあたりには私は懐疑的である。実際、展示される作品を見てもよくわからなかった。ただ、急ぎ足で回っただけなので、もう一度、機会があれば、じっくり見てみようとは思う。

リアル・ジャパネスク - 世界の中の日本現代美術

今回のメインは日本の若手芸術家の作品を集めた「リアル・ジャパネスク」。1970年生まれ以降の人たちばかりだから、自分と同世代。同世代の芸術家が何を表現しようとしているのかは興味あるところだ。

しかし、最初のブースに入った瞬間から唖然としてしまう。細い木の棒と白い紙を組み合わせただけの、奇妙な展示物が目の前に置いてあったので、小学生の作品か?と戸惑った。現代芸術って、こういうものなのだろうか。

最初のブースは貴志真生也(きし・まおや)という人の作品スペースだった。(以後の個人情報はパンフレットなどに基づく。)

1986年、大阪生まれの芸術家で、若干26歳くらい。このような施設で展示されるのだから、結構有名な人なのだろう。

展示物の写真は撮れないので別の展覧会に用意された別の作品をネットで見つけたので参考までにアップしてみる。

   貴志真生也  ※別の展覧会

こういうものである。さっぱりわからない。(あるブログで紹介されている展覧会「挨拶&立ち上げ」の作品より。)

次のブースは南川史門(しもん)。1972年生まれの40歳(?)なので若手とは云えないかもしれないが、それだけに「まとも」な作品ではあった。

カンヴァスにアクリル絵具(水彩と油絵の間くらいのもの?)で描いた絵が作品のほとんどで、ストライプと水玉を多用したシンプルな絵が並ぶ。

   南川史門  ※別の展覧会

こういった作品。(これも別のブログ記事「MISAKO & ROSEN at the NADA ART FAIR 2009」から拝借。)個人的に気に入ったのは「乱れ髪、エリカ、緑、黄色」という絵。

   南川史門 / 乱れ髪、エリカ、緑、黄色 2010年

(いま見るとそういいとも思えないが、)シンプルな構図のなかで暖色系の色をうまく配置しているように見える。そして、会場では気づかなかったことだが、南川史門の絵は以前どこかで見たことがあったのだ。つまり、作家の吉田修一の本のカバーになっていて、その表紙は記憶に残っているから間違いなく本屋で見たはず(なお、吉田修一の本は一冊も持っていない)。

(ブログ「one man dog, obi one blog」から拝借)

本書は手にとらなかったはずで、棚で背表紙か平積みで表紙を見ただけのものを記憶しているということになる。そんなちょっとした視線を捕らえられただけで、絵としての魅力はあるのではないか。

その次は竹川宣彰(のぶあき)。1977年生まれ。

比較的まともな絵が飾ってあるが、「安定の島」を描いた絵があった。絵自体のタイトルは「核図島」か「迷信の地球儀」かなにかで(忘れた)、要は原発批判のものだったと思う。よく観ていないので安易なことは云えないが、単純な原発批判はウンザリ。

さらに、大野智史。1980年生まれ。

「メランコリー」という絵が迫力あってよかったのだが、画像は見つからず。

佐藤克久(かつひさ)。1973年生まれ。

なにも覚えていないので省略。

五月女哲平(そうとめ・てっぺい)。1980年生まれ。

彼らの中にあってはまともな絵だったが、覚えてなし。

そして泉太郎。1976年生まれ。

あらゆる意味で衝撃的だったのが、泉太郎の作品群。

何かを壊していたり布に体を押し付けてみたりする自分を映像で流し(意味はわからず)、床には文字が書きなぐってある。変なオブジェクト(オブジェではない)も置いてあるし、半笑いにならざるをえない。

でも、もっとも印象に残ったという意味では彼がダントツだ。

床に書いてあった文字は、映像をみて気づいたけど、会場にうさぎを放してその動きを追いながらとにかく思ったことをメモしていったものだった。

いま「変なオブジェクト」と書いたものは、円周状に板で形作られたダクト(上半分は開いている)で床にひらがなの文字を書いてはすぐ体で消していくのを延々と続けたもの(二人作業)、というかその様子を映像で流していた。その残骸(といっても壊れてはいない)が置いてあったのだ。まったくもってわからない。

あと二人。1976年生まれの竹崎和征(かずゆき)は、カンバスにブルーシートを貼って絵の一部としているものや、羽ぼうきをカンバスにはっつけてある作品などが展示されていた。カンバスと絵具という関係を乗り越えようということだろうか。

最後に、和田真由子。1985年生まれ。ヨットのオブジェなどの立体的な作品が多かった。ちょっとわかりません。

こんなにわからないものだらけでいいのか疑問に思う。

それで人に何かが伝わるのだろうか。作者の自己満足の領域から踏み出ているのか。

これからうまれてくるであろう(うまれつつある)日本の現代芸術に、あまり期待しないほうがいいのだろうか。


<私>の解体へ 柏原えつとむの場合

実はもうひとつ同時開催されていた展覧会があって、よく知らない柏原えつとむ(1941年生まれ)という人単独のスペースがあった。

それなりに実績のある人だろうから安易に云うのもよくないだろうが、テーマが古すぎるのではないか。

この人が活発に活動を展開したのは1960年代から70年代ということであるが、その時代にあっても、「私」という主観・一人称を思考と感性の中心から剥奪してみるという試みはいかにも古い。現象学が登場するまでなら新しさがあったろうが、現象学が哲学を席巻して50年以上も経っているその時代にあって、いまさらそんなことをアピールしても、日本の芸術の後進性を暴露することにはならないだろうか。

といっても、作品はさらっと見ただけで文献もなにも読んでいないので無責任かもしれない。だが、Mr.Xがどうのこうのとか、マリリン・モンローの顔の輪郭をつかった(だけに見える)作品も、ちょっと気恥ずかしくて真面目に鑑賞することはできない。