6月26日
福田恆存のナントカという文章(「近代日本文学の系譜」)についてもう少し補足すると、二葉亭が学び取った文学はロシアの文学を中心としたヨーロッパ文学であって、その文学観と現実の日本社会との乖離はどうにも否定しようがなく、二葉亭にとって文学は文学、現実は現実であり、それゆえに「二重生活」を強いられていた、という。行動によって解決できないほど切迫した現実の問題はなく、だからこそ二葉亭は「浮雲」のあと、現実=官吏の道へと進んだ。この現実では解決されない問題こそが、文学の原動力となるのだ。その意味で、尾崎紅葉などとは違い、二葉亭は誠実であった。
まあ、なんとも恆存らしい語り口である。これを基準に二葉亭関係の本を読もう。ということで、内田魯庵の『思い出す人々』の続きを読む。さらに、本棚で『近代日本文学のすすめ』とかいう岩波文庫を見つけたので開いてみると、なにかと世間を騒がせる小谷野敦が二葉亭について書いていた。いわく、「浮雲」は日本で最初の男の恋の悩みを取り上げた小説であると。それ以前、男女の恋愛は相思相愛か女の恋わずらいが主題となることはあっても、男が恋に悩んでいるさまを描いた作品は日本になかったという。事実なら、これは画期的かもしれない。
さらにさらに、この文庫の巻頭には何人かの文学者らによる座談がおさめられていて、その中で加賀乙彦が面白いことを云っている(赤線が引いてあるのでもちろん一度読んだ文章ということになるのだけど…)。日本の近代文学が欧米のそれとは違うところは、孤独になりきれないことだ。この「孤独」は物理的なもので、つまり、ひとりになりきれる個室が日本にはなかった。家族や近所の付き合いが何かと日常を邪魔する。日本の作家は閉鎖的空間を持ち得なかったのだ。が、この閉鎖的空間を独自に捜し求めた先が、日本に特有の私小説ではなかったか。
ひとつの都市論にもなっていて記憶しておきたい言葉だね(一度読んだのに記憶してなかったし。なんとなく覚えてはいたのだけれど)。
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