7月6日
この間読んだ山本七平『昭和天皇の研究』について補足しておくと、本書のハイライトである津田左右吉の「自然のなりゆき」という言葉が天皇(もしくは君主一般)についての困難性を解説してくれるだろう。
戦前、軍部や官僚たちは自分たちの意を天皇の意だと国民に偽装し、その結果として国民は玉砕という強迫観念から逃れられない精神状況に陥ってしまった。その挙句の敗戦について、国民はふたつの感想を抱いた。ひとつは、肉親の死に対して、または自分たちの苦痛に対してすべては天皇陛下のため、国家国民のためだったと納得させた感情。もうひとつは、こんな酷い目に遭わせた戦争を統帥した天皇に恨みを抱く感情。
この後者の気持ちは「自然のなりゆき」と云えると津田は書いた。被害者が責任者を問うのは当然のことである。この意味で、軍部や官僚こそが最も反天皇的な行為をはたらき、天皇に責任をなすりつけた張本人である。しかしだからと云って、彼らに真実を、天皇の意志とはつまり軍部や官僚の意志でしかなかったことを告げればいいわけではない。それは前者の敬虔なる感情を侮辱してしまうことにもなるからである。愚鈍な官僚たちのせいで息子を亡くしたと思いたくはないのだ。
したがって、軍部や官僚たちは、二重の意味で天皇を裏切った。(前者に対する)倫理的責任と(後者に対する)政治的責任を天皇に帰せたという裏切りである。いや、もうひとつ、重い裏切りをしてしまっている。それは、天皇に戦争は本意ではなかったとの自分自身の真意を伝えられなくするという恐るべき裏切りである。そしてここに、近代における立憲君主制の困難性があるのである(書く気になったら続きを書きます)。
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