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2012年2月24日金曜日

木村泰司『印象派という革命』についてのメモ

2月某日


だいぶ前に木村泰司『印象派という革命』(集英社)を読み終えていた。最初の読みにくさを乗り越えれば、最後まであっという間に進んだ。

木村 泰司
集英社
発売日:2012-01-26


本書の章構成は、印象派以前のフランス近代絵画史概観、マネ、モネ、ルノワール、ドガ、モリゾ&カサットとなっており、各画家たちの略歴とともに印象派の特徴と時代的意義が語られる。内容としては初心者向けといったところ。

前エントリーで書いたように文章構成のよろしくなさはあるものの言葉は平易で、断片的にしか知らなかった彼ら印象派画家たちのことがよくわかった。

芸術後進国フランス

実は、フランスは文化・芸術といった面では後進国であったという。たしかに文学でいえば、フランスで傑作が書かれたのは18世紀から19世紀のことであり、16世紀以前の名作というのは私は知らない(というか、ただ読んだことがない)。では当時の文化の最先端はどこであったかと云えば、それはイタリアである。

「芸術家」という概念自体がイタリアの発祥であり、ダ・ヴィンチの絵画などルネサンス華やかなりしイタリアに遅れて「芸術」が生まれたフランスは、そのせいか、「芸術」は生活を離れた理念的なものに依存していた。そのフランスの初期芸術を代表するのが画家ニコラ・プッサン(1594-1665)。そもそもプッサンは画家としての人生の大部分をローマですごしている。

ニコラ・プッサン / ソロモンの審判 1649年

知性と教養に裏打ちされたプッサンの絵画は、感覚ではなく、理性に訴えるフォルムを構成していた。モノ・コトはあるがまま描くのではなく、あるべき姿・形で描かねばならない。これがフランスの美術アカデミー(公式の美術界)の美の規範となる(その経緯は省略)。そしてその影響は、印象派が登場する19世紀後半まで続いたのだ。

「あるべき姿」から「見たままの姿」へ

印象派の登場にはいくつかの段階が必要であった。そのひとつが、ギュスターヴ・クールベ(1819-77年)の写実主義である。それは、哲学や政治の世界から遅れて眼前に立ち現れてきた「主題の近代化」を象徴していた。見たことのない世界を描く神話的・歴史的主題から自分が見たままの世界を描く写実的主題への変化は、絵画の世界に初めて「近代」が登場したということを意味する。 ※なぜクールベの写実主義が登場したかの背景の説明必要

ギュスターヴ・クールベ / オルナンの埋葬 1849-50年

この「オルナンの埋葬」は埋葬と追悼という敬虔な場面を描いてはいるが、受ける印象は神聖というよりも仮借ないほどに陰鬱だ。集まる人々も一点に視線を集中させるどころか皆バラバラの方向を向いていて、現実がそうであるように、それぞれ思い思いの感情を抱いていることが見てとれる。とりわけ子供は純粋にも関心さえなさそうだ。これが現実であり、「見たまま」の光景なのである。

日本人からすれば「見たまま」を描くのは当たり前に思える。が、キリスト教と王政の支配するフランスからすれば、それは神と王への冒瀆と受け取られる行為であり(現実は神と王が説くような世界になっていないのだから)、当時にあってはとても過激なことであった。この反キリスト教・反王政的行為の顕然化それ自体がまさしく「近代」の登場を裏付けており、「近代」は宿命的に不可逆で進んでいく。

バルビゾン派と屋外写生

クールベと同時代かその少し前に登場した「バルビゾン派」(1930年代以降)についても触れておきたい。18世紀に台頭し、フランス革命前後には影響力を増大させたブルジョアジーたちは美術に関心を抱き始め、絵画を買い集めるようになった。しかし彼らブルジョワジーは美術アカデミーが要求するような教養は持ち合わせておらず、より身近な風景画や私的な肖像画を好むようになる。田園風景や素朴な民衆を描くバルビゾン派がうまれた背景にはそんなブルジョワジーの趣味があった。

有名なのがジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)。「落穂拾い」は一般の歴史教科書にも掲載されるほど有名だから誰でも知っているだろう。テオドール・ルソー(1812-67)はあまり有名ではないかもしれないが、ルソーこそバルビゾン派の創始者であり、その特徴をもっとも反映する人物である(『社会契約論』のルソーとはまったく別人である、念のため)。

テオドール・ルソー / ノルマンディーの風景 ?年

田園風景を描くわけだからアトリエにこもって筆を運ぶわけにはいかない。ルソーはバルビゾン派の最大の特徴である屋外での写生に基づく制作を最初にはじめた人物なのである。バルビゾン派は別名、「外光派」とも呼ばれた。積極的に外にでて実際の風景を目の前にして写生をすることは、不思議にも、当時にあっては画期的なことであり、それまで絵というものは屋内で描かれるものであったのだ。そして、この屋外写生こそ、印象派の特徴のひとつともなるのである。

エドゥアール・マネの登場

さて、印象派である。

世代的にも最年長であり、印象派の指導者とみなされるエドゥアール・マネ(1832-83年)は「クールベがこじ開けた近代美術の扉を、よりいっそう押し開いた画家」だった。

マネが影響を受けたのはスペイン絵画。フランス美術界を支配する(新)古典主義の規範から外れたスペイン絵画は真摯な写実主義を特徴としており、スペイン絵画を代表するベラスケスやゴヤから強い刺激をマネは受けた。いずれも非現実性とは無縁の画家たちだ(いや、ゴヤの後期作品には幻想的な絵が多い。だがそれは古典主義とは正反対のデモーニッシュな(悪魔的な)ものだ)。

ベラスケス / ラス・メニーナス 1656年

絵画に込める思いという点では、シャルル・ボードレール(1821-67)の影響も見逃せない。ボードレールは、現代の画家は「現代生活のヒロイズム(英雄性)」を描かなくてはならないと批評で訴えていたが、マネも成長し続ける近代都市パリの本質や、さまざまな人生の断片を描いた。

そんなマネの初期の代表作が「草上の昼食」。旧題は「水浴」で、後にモネの「草上の昼食」にちなんで改題された。

エドゥアール・マネ / 草上の昼食 1863年

この作品が発表されたとき、マネは鑑賞者からの激しい非難を浴びた。理由はこうだ。伝統的に絵画を「読む」ことが当たり前だった当時の人々は、この作品からは自然と猥雑性を読み取った。つまり、第二帝政時代の影の部分=売春の世界が描かれていると受け取ったのである。現実的すぎる社会(裸体)を描くなんて・・・というある種のイデオロギーが支配していたわけだ。

非難をさらに増した作品が「オランピア」。明らかに娼婦とわかる女性を、西洋絵画の伝統に反する輪郭線を際立たせて描いた傑作である。

エドゥアール・マネ / オランピア 1863年


(つづく)



2012年2月5日日曜日

本は言葉の流れが大事 - 木村泰司『印象派という革命』

2月某日

某ブックファーストで購入。

木村泰司『印象派という革命』(集英社)

木村 泰司
集英社
発売日:2012-01-26



棚の背表紙が気になったので手にとってひと通り立ち読み。冒頭の絵の写真が充実しており、ベルト・モリゾやメアリー・カサットに一章をもうけてあるので買うことに。モリゾとカサットを解説した本は意外に少ないのだ。

印象派についての本は世の中に数あふれているけど、個人的には印象派を専門に扱った本は初めてなのでとても愉しみにして自宅で読み始める。

著者はカリフォルニア大学で美術を専攻し、イギリスはサザビーズの美術講座で絵を学んだという人。「サザビーズ」というところが異色で、きっとヴィヴィッドな美術論が展開されるのだろうと期待していたのだが・・・。

文章がちょっと下手すぎるのではないか。別に句読点の使い方や誤字云々というわけではなく、文章の流れとして違和感(ひっかかり)を覚えることが少なくない。フランス近代の美術史が最初に概観されるわけだが、解説すべきところを解説せず、差し挟むべきでないことを差し挟んでいていかにも読みにくい。編集者の怠慢を問いたいところだ。

だが、内容はとても面白いもので、なぜ印象派が当時のフランス美術界で受け入れられなかったのかがよくわかる。すなわち、フランスの美術アカデミーには「美」の規範があり、その規範と相反する絵を印象派は提示したのであった。

ま、本書の醍醐味はこれからだろうから、とりあえず読み進めよう。

(つづき)
24.2.24.「木村泰司『印象派という革命』についてのメモ 」