6月某日
ポー「モルグ街の殺人」を読み終えて「失われた手紙」を半分ほど読む。
「モルグ街」は若干失望したけど、「手紙」はずいぶん面白そうだ。「推理する人間の知性を推理される人間の知性と同一化」することが犯罪推理の(もっといえば人の繊細な意識の)要諦である。それは言葉上で納得できる以上に真実だ。
自分の知性のレベルに対象を引き上げるのではなく、対象のレベルに自分の知性をなぞらせる。この場合、知性の高低は問われない。ただ、その意識があるかないかが大事なのだ。
相手の思考に自分の思考を沿わせるのはとても難しい。自分の既存知識や感情的な自意識が邪魔するためである。ポーの小説でこんなことを思わされるとは思っていなかった。予想外の収穫である。
6月某日
福田和也『昭和天皇 第二部』文春文庫を読了。つづけて『第三部』へ。
第二部は大正天皇の崩御まで。つまり、昭和天皇が天皇となるまでに二冊が要されたということになる。
即位までの歴史を読んでみて思うのは、明治時代のみならず、大正時代末までの日本もまた、幸福であったということだ。昭和の失敗を暗示するような出来事(例えばテロや政党政治の腐敗、天皇の政治利用など)が目立ち始めたとはいえ、それは後からそう云えるわけであって、国家としては大正時代を通じて盛隆しつづけていたと云えよう。存在感が増すにつれて他国との軋轢も生じやすくなるのは至極当然のことであって、軋轢を生んだのだから政治=外交は間違っていたのだと逆転させてはならない。
そして、先帝の崩御をうけて昭和がはじまるのだった。
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