12月某日
例のブックファーストに寄って文芸書棚を眺めていると、またもや高そうな本が置いてある。
ドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(講談社)。
著者はもちろん知らない人だが、レヴィ=ストロースの伝記ということで興味をそそられ立ち読みしてみる。上下二段組の本格的なものだ。3,800円という値段にもはや躊躇することなく購入。
購入してから1週間が経つが、まだ1ページも読んでいない。
12月某日
『一個人』(KKベストセラーズ)という月刊誌が天皇特集を組んでいたので、この雑誌を初めて購入。
まだ半分くらいを読んだところ。内容は一般的な紹介にとどまるレベル。
歴代の天皇のなかから「10人の賢帝」として、推古天皇、天武天皇などを単独でとりあげている部分がおもしろかった。むかし勉強したものばかりでとても懐かしい。最新の研究成果も盛り込まれており、天皇と云うものに関心のあるいまだからこそ愉しめる部分も大きい(ところで、大海人皇子は教科書では「おおあまのおうじ」と習ったものだが、いまは「おおあまのみこ」と読むらしい。ちょっと寂しい)。
天皇を語るということ
ところで天皇本ないしは天皇に関する文章を読んでいていつも気になることがある。それは、天皇について書く筆者のほとんどが、おそるおそるペンを走らせていることだ。
おそれているのは天皇ではない。世間である。
世間に自分がどう見られるかをおそれているのだ。天皇を賛美しているのではないか、右翼ではないのかと疑いをかけられることを極度に避けようとしている。だから文の途中でつねにエクスキューズが入る。いわく、天皇はこのような行動をした、しかしそれは××××だったのだが、というような。
それが顕著なのは、古代の天皇を記述するときである。確実に云えることでない限り、天皇にまつわる逸話はすべて否定される。古事記・日本書紀に細かく書かれていないことはすべて嘘であり(たとえば初代神武天皇から第9代開化天皇までは架空の存在と断言さえされている)、かつての天皇による崇高な行為はたいてい誇張されているものとされる。どんな民族・国民でも自国の歴史さえ、客観的にみることはできていないのに。むしろ、すべてを証明できる事実に基づいて語ることなど、ありはしないのに。その消極性は何なのだろうか。
世間の目をおそれているからに違いない。すこしでも天皇をポジティヴに考えてしまうと、即「右翼」なのである。こんな状況は不幸でしかないだろう。天皇をマイナスにとらえる人たちは必ず、どこかで事実を無視した発言をしていることも見過ごすことはできない。つまり、天皇に関してのみ、事実だけを伝えなければならないと考える人が相当数いるわけなのだ。
たとえば、大化の改新は実はなかったのではないか、という疑問を書くのはとても健全であろう。だが、開花天皇以前は実在しなかったとまで云うのはどうなのだろう。記述という方法が確立されるまでの口伝の歴史はすべて虚構なのだろうか。
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