ページ

2011年8月25日木曜日

フェルメール×科学者=福岡ハカセ?

8月某日

福岡伸一『フェルメール 光の王国』(木楽舎)を読む。

まだ半分くらいだが、期待はずれでもあり期待通りでもある本だ。

ブックファーストの棚にさりげなく差し込まれていたこの本は、福岡ハカセという著名人でありながら出版社がマイナーすぎるからか、あまり知られていないだろう。気づいた自分もさすがだが、小規模の店舗なのにちゃんとわかるように棚におさめていたブックファーストもさすがである。

この本にしていた「期待」というのは、以前書いたエントリーで興奮をこめて福岡ハカセのフェルメール論(週刊文春)を紹介した、そのエッセイがまとめられたものだからである(正確にはANA機内誌に連載され、それをかいつまんでフェルメール論をハカセは文春に書いた)。

エントリー「フェルメールのデッサン」で書いたように、フェルメールの知人である天文学者のノートに書かれたデッサンがフェルメールのもではないかという推理を一部、ハカセは披歴してくれていた。その詳細がわかるかもしれない、とこの本にずいぶんと期待したわけである。

半分を読んだところでは、それについては触れられていない。だから以下は読んだところまでの感想である。

期待はずれだったのは・・・なぜか野口英世が登場すること。

アメリカに滞在していた野口がニューヨークの美術館でフェルメールを鑑賞した記録があるならまだしも、そんなものは一切なく、なぜかハカセは野口英世とフェルメールの出会いの可能性を熱く語る。たぶん、通勤途中にある美術館でフェルメールの絵は観ただろう。でも、この本に登場する必要は感じられない。もっとも、単行本としてはフェルメールをタイトルにしているが、ANA機内誌連載時には別の主題があって、たとえば、科学者とフェルメール、のようなものだったのかもしれないが、それでも野口英世がエッセイの舞台にでてくるのは奇妙な感じがするのである。(ついでに云えば、天才的数学者ガロアについてもかなりの分量が割かれているが、ガロアとフェルメールとの接点はほんとうに一切ないのだ。野口は晩年、油絵を描いた、という細すぎるつながりは、ある。)

期待通りだったのは、写真が奇麗なことといろんなエピソードが紹介されること、である。

日本ではまず不可能だが、欧米の美術館では館内での写真撮影が許可されていて、フェルメールの飾られている様子を撮った写真が本書にはたっぷり掲載されている。しかもいい写真ばかりだ。

所蔵館ではこんなふうに飾られているんだ・・・と、とても感慨深い。

さらに、各美術館プロパーのキュレーターがほぼすべての絵に登場してくれて(ドイツの美術館ではなぜか学芸員が一人も登場しない)、その話が結構おもしろいのである。勉強になる。(つまり、ハカセ本人の言葉ではないのだった。)

ひとつ例をあげれば、「音楽の稽古」について。

     フェルメール / 音楽の稽古

室内画であるのにちょっと遠い距離からの視点が特徴的なこの絵、ほかのフェルメール作品にはない「鏡」が奥のヴァージナルの上に掛けられている。

この鏡に映っているものは、じつは間違っている。壁と鏡の間の角度と鏡に映るべき光景があきらかに違っているのである。壁と鏡の角度が正しいとすれば(これ以上傾けて掛けられることはないだろうからこちらが正しい角度)、鏡には手前のカラフルなクロスをこえて、絵を描いているフェルメールまで映っていなければならない。

しかし、実際はクロスのかかったテーブルの脚までしか映っていない。

英国王室コレクションにて学芸員をつとめるジェニファー・スコット女史は「フェルメールは自分自身を絵の中に描きたくなかったのではないでしょうか」と云うのである。

自画像を描いたり(あるいは描いてもらったり)、絵の中に画家自身を登場させたりする画家が多いのに、なんとも控えめではないか。自分を描かなかったのは、たぶん、絵が世俗化するのを嫌ったからだろうけれど。

2011年8月24日水曜日

団鬼六をもてあそぶ小池重明

8月某日

団鬼六『真剣師 小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)を読む。

この間亡くなった団鬼六のひとつの傑作。鬼六の本を読むのはこれがはじめてでとても楽しみにしていた。

アマ将棋界の異端児である小池の人生は想像以上に破綻していた。生真面目に働く(働ける)時期とすべてが乱れる時期との落差が大きすぎる。その間には、比較できないような将棋の才能があった。おそらくプロでも通用したであろう才能が。

将棋のない小池は、ただのバカであったとしかいいようがない。恩人から金を盗んでも軽い後ろめたさで通過しつづけて20年を無駄にし、最後の数年はあまりに人がよすぎる団鬼六にすがるだけのつまらない男だった。

その小池を鬼六先生はありのまま描いている。さすがというべきだろう、言葉の並べ方は流れるようでとても読みやすい。もう少し、文学的な匂いを期待していたが、それは余計だったかもしれない。

といいつつ、鬼六先生はエッセイのほうがずっといいと思うね。

2011年8月17日水曜日

京都のフェルメール 2

8月某日

〔 承 前 〕

 4章 手紙を通したコミュニケーション

さて、目的のフェルメールである。

今回日本に運ばれてきたものは、フェルメールのなかで人気のある絵というわけではない。だが、「手紙」にまつわる絵画が3枚集められているのは貴重だろう。といっても、その貴重さの程度がわかるほど、詳しくはない。

「4章」に用意された絵画は2つのブースに分けられていた。フェルメールとそれ以外と、である。もちろん、奥のほうにフェルメールの部屋が用意されている。

最初のブースから駆け足で最後の部屋まで向かう。各ブースの壁に飾られている名画であろう絵画たちをちらちら見やりながら、惜しげもなく通過していくときの気分は、なんともいいようがない。もったいないのか、当然の行為なのか。

最後のブースに入る直前、少し歩みが遅くなる。フェルメールの絵をはじめてこの目で見るのだ。緊張しないほうがおかしい。画集で散々みてきたフェルメールがもうすぐ現れるのだから。

薄暗い部屋に入る。ほかの部屋より人が多い。ここでは絵の1枚1枚に警備員がついているのがすぐわかる(ほかの部屋では部屋に1名か2名だ)。

入口近くに飾られていたのは「手紙を書く女」。

     フェルメール / 手紙を書く女

地味。それが第一印象である。

画像は比較的明るいが、部屋が薄暗いせいか、実物は色あせた絵に見える。

人が多いため遠くから眺めたからそう見えたのかもしれない。隙間を見つけて、近くに寄ってみる。

間違いなく本物だ。本物の質感だ。

絵から1mの距離で凝視すると、ドレスの縁の白いふさふさがとても繊細に描かれているのがよくわかる。毛の一本一本までが見えるくらいに。

点描にも目がいく。テーブルにおかれたケースや真珠のネックレス、椅子の鋲が不自然なほど白く光っている。そして、よく見てみれば、女の耳にも真珠の耳飾りがあるのだ。

女の表情は遠くで見ればちょっと怖い印象をうけるが、近づいてみてみると意外に優しい顔をしている。少し暗く、醒めた表情ではあるけれど。

でも、この絵はやはりトローニー(実在しない人物がモデル)なのだろうか。女の顔のつくりが人工的にみえ、人形に近いと云えなくはない。

いずれにしても、この絵の表現全体が、フェルメールにしか描けない種類のものだということは明らかだ。そして、絵というのは、写真でみるよりも本物をじかにみるほうがずっといいのだと知った。

そんなことを感覚的に思いながら絵の前で数分立ち止まって、隣のフェルメールに移動する。

〔 次 回 〕

2011年8月7日日曜日

京都のフェルメール 1

8月某日

〔 承 前 〕

さて、最初のブースに入る。正直、すこし緊張してしまった。フェルメールが飾られる空間に立ち入るという事実に若干萎縮してしまったといえるだろう。

 1章 人々のやりとり-しぐさ、視線、表情

あらためて、今回の展覧会のテーマは「フェルメールからのラブレター」となっている。

このタイトルをみたときはちょっとナイーブな感じがして、みょうちくりんなキーワードが所狭しと並んでいたらどうしようと不安もなくはなかったのだけど、一歩中に入って最初のブースのテーマ(上記)の解説を読み、最初の絵を目の前にして、その不安は杞憂だったことがすぐにわかった。そんな「ラブレター」みたいな言葉で表象できる展覧会ではないことは一目瞭然だった。

「第一章」の解説は次のとおりになっている。長いけれど、公式サイトからそのまま複写。

仕事や余暇を楽しむ民衆の姿を理想化せずに描く風俗画では、日常生活の親密な場面が主題となり、典型的な人物や衣装、場面設定などに鋭い洞察が向けられた。家庭や居酒屋、仕事場といった日常的な環境の中の人々が描かれたが、実際の様子を描いているように見えても大抵は画家のアトリエで考案された。これらの作品は楽しみのための作品という性格も強く、家庭の団らん、売春宿の情景、農民の食事、「もたれかかる女と兵士」といった主題が描かれた。

誘惑や罪の意識にかられながらも、飲み食いや会話を楽しみ、音楽を奏でる人々の絵は聖書の主題を描いた銅版画に由来する。そこでは道徳的な語句がそえられることによって、欲望のままに生きる安易な生活を避けるよう、鑑賞者に注意を喚起していた。

単に日常の正確な描写のように見えるこれらの風俗画も、その多くが、オランダの諺や格言、道徳的なメッセージを示唆している。画家も絵の購入者たちも道徳的な解釈をふまえつつ、散らかった家庭内の様子や売春宿の情景を楽しんでいたことだろう。

宿屋の主人でもあったヤン・ステーンの作品はその好例で、彼の作品のタイトルは「酒場」「宿屋」「売春宿」などと区別されているが、実際はすべて同じ建物であることが多く、「表は宿屋、裏に回れば売春宿」というオランダの格言そのものであった

長すぎた。要は、宗教画を脱した(と思われる)風俗画にも何らかの教訓的なメッセージが込められているということだ。その是非は別として、当時はありのままをありのまま肯定できる時代ではなかった。もちろんそこにはメッセージを読み解く楽しみがあるのだろう。

このブースで最初に掲げられていた絵は、ブレーケレンカム「感傷的な会話」。これは名画なのか?と首をかしげてしまったが、隣のボルフの「音楽の仲間」をみて「おぉ・・・」とうれしくなった。じっとみつめてしまう。背景は暗くぼやけていて、中央のヴァージナルを弾く女とヴィオラを奏でる男に光があたる。女のモノトーンのドレス、男のヴィオラが光ってみえる。しばらくボルフの絵の前で動かずにみていた。

そうして次々に絵をみていったわけだが、とても時間がかかる。こんなに長く絵の前に立つことになるとは自分でも予想していなかった。

時間がかかるということは、最後のブースに鎮座ましましているであろうフェルメールにたどり着くまであと数時間かかってしまうということ。10枚ほどの作品をじっくり眺めたところでしびれがきれ、我慢できずに最後の部屋まで直行した。

 〔 次 回 〕

2011年8月6日土曜日

ついに出会ったフェルメール

8月某日

出勤途中の電車で中吊りを見上げたら、「フェルメール」の文字が目に入った。

まさか・・・と思いつつじっくり読んでみると、京都市美術館でなんと、フェルメールの絵が見られるという。いま、まさしく、このときに。これは行かねばならない。初めてフェルメールの作品の本物を間近で目撃できるチャンスなのだから。

ということで、京都まで足を運んで、京都市美術館を訪れた。


「フェルメールからのラブレター コミュニケーション:17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ」
Communication : Visualizing the Human Connection in the Age of Vermeer


このあたりは初めてなので京都の地下鉄構内でうろうろさまよいながらも、なんとか午後1時前に到着。当日チケット(1,500円)を購入していざ館内へ・・・しまった、昼ごはんを食べていない。再入館はできないはずだから、チケットを切られる前にすませておかなければ(まさか館内に飲食店があるはずもなく)。

じれったく感じながら早速美術館をあとにする。構内にレストランはないかと探してみたが、例によって、半ば公営のいかにもという店しかない。京都まで来てそれはパス。結局、少し歩いて周辺を探して老舗っぽいそば屋を見つけ、そこで天ぷらそばを食べた。よし準備はOKだ。

戻って美術館にためらいなく入る。美術館は10年ぶりくらいなので、それだけでも興奮を抑えきれない(10年前はピカソかドラクロアだった。東京)。

ところで。展示されている絵を見るまでは、今回の展覧会「フェルメールからのラブレター」がどういう趣旨のものなのか、実はよく知らなかった。とりあえずフェルメールの実物を見られるという動機しかなかったのだが、これが思わぬ収穫となったことがすぐにわかった。素人がみても、傑作ばかりだったのだ。

名作ではなく傑作と書くのは、フェルメール以外はほとんど知らない画家の絵ばかりで、画家の名前から絵をみたのではなかったから。そして、自分の目で「すごい」「素晴らしい」と感じることができた作品がたくさんあったからだ。絵のド素人でも感動させるのは傑作というほかないだろう。

さて、チケットを渡して館内にはいると、展覧会はいくつかのブースに分かれているようだった。無論、主賓のフェルメールは最後に登場するのだろう。ここは我慢して、順序通りにみていくことにした。

最初のブースのテーマは-
  第一章 人々のやりとり-しぐさ、視線、表情 

〔 次 回 〕

2011年8月2日火曜日

江藤淳と福田恆存

8月某日

順序を少し間違えた。辰野隆を本格的に(つまり拾い読みでなく)読むまえに坪内祐三『後ろ向きで前へ進む』(晶文社)をまず読んだのだった。

小谷野敦が云うように、坪内祐三のこの著書には江藤淳の言語空間問題(=GHQ検閲)に批判的な文が掲載されている。戦後数年の占領期にGHQが行なった検閲を丹念に調べ上げた江藤淳の仕事にたいし、当時の批評家たちは冷淡だった。有名なのが福田恆存による揶揄であった。その揶揄(というよりある種の姿勢)を紹介しているのがこの文である。

今回ひさしぶりに読んでみたが、あの江藤淳を客観視できる人がいたのだというのは今からは信じられない事実だ。

死後なら、なんとでも云える。どれだけ的外れなことを書いても本人から罵倒されることはないし、的確な批判を投げかけたとしてもそれを相対化しうる反論が本人の口から直接語られる可能性は(江藤淳の場合は特に)高い。

だが、この福田恆存の批判は江藤淳がバリバリ活動している最中に、本人に見える形でなされたものである。しかも内容はいちいちもっともだ(当時、占領下では検閲は誰でも知っていたということ、知りたければわざわざアメリカに行かずとも私に聞きに来ればいいだけのこと、なのにそうしたのは立場が重くなるにつれ身動きが取れなくなってきた自分の「勇気」を改めて世間に示すためだったのではないか、検閲と憲法が戦後文学を拘束しているという理屈は「思いつき」にすぎないだろう。・・・・)。

疲れたので続きは今度。

2011年8月1日月曜日

辰野隆と愉快な仲間たち

7月某日

辰野隆『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫)を読む。

題が「忘れ得ぬ人々」だから、辰野隆が昔出会った人たちの思い出をつづったエッセイ集である。

当然、いろんな人がでてくるわけで、辰野隆が尊敬してやまない露伴、漱石、鴎外は誰でも知っているとして、あまり知られていない人もたくさんでてくる。

三宅雪嶺はそれなりに有名だろう。でもたとえば巻頭にくる浜尾新なんかは知らない人がほとんどではないか。かくいう私も福田和也の『昭和天皇』でその名を覚えたくらいである(電話があまりい長い文部大臣・東大総長として)。

辰野隆と交友のあった人物ということはそれなりに(当時は)有名な人たちばかりである。まだ読んでいる途中だけど、メモして無駄ではあるまい。

辰野隆がともに仏文学を学んだ仲間として、鈴木信太郎と山田珠樹がでてくる。鈴木信太郎の名前は、フランス文学に少しでも触れたことのある人であれば誰でもみたことがあるだろう。ボードレールなどの翻訳で有名だ。

それより山田珠樹、である。この名前はどこかでみたことあるなぁと思いつつ気にとめずにいたけど、偶然思い出した。森茉莉の最初の夫であった。すぐに離婚したふたりであるが、森茉莉の側からみると、元夫=山田珠樹のイメージは大変よろしくなかった。でも、辰野隆の視線からみると、なんとも楽しげな人ではないか。

次に、吉江喬松。早大に仏文科を創設したというから、辰野隆と同じく日本の仏文学研究の嚆矢に連なる学者だろう。吉江狐雁(こがん)という号をもつ詩人でもあったようだ。

もうひとり、石本巳四雄。辰野隆と山田珠樹がフランスに留学しているとき同じくフランスに留学していた地震学者。理系でありながら絵画や文学をも愛していたため辰野らと気があったようだ。下宿先にわざわざピアノを借りてまで持ち込んで、ピアノを楽しんでいたらしい。辰野隆によれば、下手の横好きであったようだが。

その石本とのエピソードは書き残しておきたい。

山田珠樹をまじえてよく三人で芸術論をかわしていたようで、あるとき、レンブラントを石本が酷評した。どこがいいんだ、あんなもの、という石本に反発したふたりは、ならば、アムステルダムに観にいこうじゃないかと翌日早速オランダまででかけた。美術館でレンブラントの『夜警』を間近でふれた石本は脱帽して降参した、という。