8月某日
福岡伸一『フェルメール 光の王国』(木楽舎)を読む。
まだ半分くらいだが、期待はずれでもあり期待通りでもある本だ。
ブックファーストの棚にさりげなく差し込まれていたこの本は、福岡ハカセという著名人でありながら出版社がマイナーすぎるからか、あまり知られていないだろう。気づいた自分もさすがだが、小規模の店舗なのにちゃんとわかるように棚におさめていたブックファーストもさすがである。
この本にしていた「期待」というのは、以前書いたエントリーで興奮をこめて福岡ハカセのフェルメール論(週刊文春)を紹介した、そのエッセイがまとめられたものだからである(正確にはANA機内誌に連載され、それをかいつまんでフェルメール論をハカセは文春に書いた)。
エントリー「フェルメールのデッサン」で書いたように、フェルメールの知人である天文学者のノートに書かれたデッサンがフェルメールのもではないかという推理を一部、ハカセは披歴してくれていた。その詳細がわかるかもしれない、とこの本にずいぶんと期待したわけである。
半分を読んだところでは、それについては触れられていない。だから以下は読んだところまでの感想である。
期待はずれだったのは・・・なぜか野口英世が登場すること。
アメリカに滞在していた野口がニューヨークの美術館でフェルメールを鑑賞した記録があるならまだしも、そんなものは一切なく、なぜかハカセは野口英世とフェルメールの出会いの可能性を熱く語る。たぶん、通勤途中にある美術館でフェルメールの絵は観ただろう。でも、この本に登場する必要は感じられない。もっとも、単行本としてはフェルメールをタイトルにしているが、ANA機内誌連載時には別の主題があって、たとえば、科学者とフェルメール、のようなものだったのかもしれないが、それでも野口英世がエッセイの舞台にでてくるのは奇妙な感じがするのである。(ついでに云えば、天才的数学者ガロアについてもかなりの分量が割かれているが、ガロアとフェルメールとの接点はほんとうに一切ないのだ。野口は晩年、油絵を描いた、という細すぎるつながりは、ある。)
期待通りだったのは、写真が奇麗なことといろんなエピソードが紹介されること、である。
日本ではまず不可能だが、欧米の美術館では館内での写真撮影が許可されていて、フェルメールの飾られている様子を撮った写真が本書にはたっぷり掲載されている。しかもいい写真ばかりだ。
所蔵館ではこんなふうに飾られているんだ・・・と、とても感慨深い。
さらに、各美術館プロパーのキュレーターがほぼすべての絵に登場してくれて(ドイツの美術館ではなぜか学芸員が一人も登場しない)、その話が結構おもしろいのである。勉強になる。(つまり、ハカセ本人の言葉ではないのだった。)
ひとつ例をあげれば、「音楽の稽古」について。
フェルメール / 音楽の稽古
室内画であるのにちょっと遠い距離からの視点が特徴的なこの絵、ほかのフェルメール作品にはない「鏡」が奥のヴァージナルの上に掛けられている。
この鏡に映っているものは、じつは間違っている。壁と鏡の間の角度と鏡に映るべき光景があきらかに違っているのである。壁と鏡の角度が正しいとすれば(これ以上傾けて掛けられることはないだろうからこちらが正しい角度)、鏡には手前のカラフルなクロスをこえて、絵を描いているフェルメールまで映っていなければならない。
しかし、実際はクロスのかかったテーブルの脚までしか映っていない。
英国王室コレクションにて学芸員をつとめるジェニファー・スコット女史は「フェルメールは自分自身を絵の中に描きたくなかったのではないでしょうか」と云うのである。
自画像を描いたり(あるいは描いてもらったり)、絵の中に画家自身を登場させたりする画家が多いのに、なんとも控えめではないか。自分を描かなかったのは、たぶん、絵が世俗化するのを嫌ったからだろうけれど。