4月某日
鈴木智彦『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書)を読む。
書店の書棚でこの本を見つけたときは、あっと思った。文芸春秋が暴力団ライターの本を出せるのだという驚きからである。しかも知らない著者だ。軽いヤクザ情報フリークの私としては最新ヤクザ情報を読みたい気持ちを抑えられないので、少し立ち読みしてみて購入を決めた。すこぶる面白そうだったからだ。
事実、とても面白かった。興味をまずそそられるのは、著者が完全なフリーライターではなく、暴力団専門雑誌の編集者を経験していて、その内幕がおしげもなく披露されていること。読者投稿のヤクザ体験記がほとんど編集者の創作であること、入社2週間で編集長を任せられた、などなど体面を重視するこの社会にあっては貴重な証言である。
著者がヤクザ雑誌の編集者となったのは、最後に本人が漏らすようにヤクザへの好奇心からだ。たしかに、ヤクザ社会には好奇心のそそられるものがとても多い。任侠と暴力・威嚇という、本来は結びついてはならないものが分かち難く共存するがゆえに、武勇伝の裏には影響力拡大の思惑が潜み、暴力の影にはそれに依存せざるをえない弱者がいることも事実なのだ。それは日本の表の社会が抱える同じ構図に他ならない。いや、「表」の社会そのものが「裏」の顔をもっていると云ったほうが正しい。むしろ、「表」「裏」などないのだ。そんなことを思わされる本であった。
もっとも、本書はピリピリした現場(博奕のルポ、抗争事件の取材など)がメインというよりも、ヤクザとライターが繰り広げる人間劇が描かれているといったほうが適切だろう。けしてメインストリームにはでてこない、もうひとつの社会の実相である。
ひとつ苦情を云えば、文章がそれほど読みやすいものではないということ。主語と目的語が省略されることが多すぎて、誰が誰にどうしたのかがわからなくなることが多かった。ここは編集部の責任だろう。もっとも、大学教授なのに文の流れをうまく表現できていない某書(昭和時代を扱った最近出版の講談社現代新書)に比べればはるかにましだが。
4月某日
山竹伸二『「認められたい」の正体 承認不安の時代』(講談社現代新書)を読む。
現代ニッポンのよくある傾向分析、かと思いきや、現象学まで登場する本格的な思考実験本。まだ20ページほどしか読んでいないけれど、これは読み応えがありそうだ。
人間が社会で求める「承認」の範囲が身近な人たちだけに狭められ、その動機が仲間はずれにされたくない(=孤立したくない)ことに限定される――――現代社会を生きている人であれば誰しも経験したことのある現実だろう。「承認」をめぐるゲームはいつまで続けなければならないのだろうかという不安――――。
4月某日
森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)を読む。
あいかわらず独特の文章であるが、この文庫にはふつうのエッセイが収められている。ふつう、というのは父鴎外の思い出とか息子の話とかではなく、森茉莉がいま目にしたことをそのまま書いているということ。その「いま」というのも、吉田茂が国葬された云々の「古い」時代の話なのだけれど。