2009年7月14日火曜日

日記や回想文はとてもおもしろい


7月某日

この間購入したふたつの日記をちょくちょく開いて読んでいるけども、戦前(戦中)の日記と聞いて何よりもまず読みたくなる日付というのが誰にでもあると思う(いや、ごく一部の人だけか?)。おそらく一番人気は敗戦の日だろうけど、自分がすぐさま開いたのが二・二六事件の日。

この日から数日の宮中ならびに政府内部の混乱はそれはもうひどいもので、秩序がまさしく崩壊しつつある雰囲気たっぷりなのである。そんな内部の赤裸々が面白くないわけがない。しかも当時、侍従を勤めていた入江相政の日記とあれば。

というわけで『入江相政日記』の1936年2月26日の項を読んでみた。と云いたいところだが、実はこの数日前の日記のほうが面白かったのである。面白いというか印象的だった。

二・二六事件の三日前の記述。この日、美濃部達吉が右翼の銃撃に遭うという事件があり、それを知った入江が事態をかなり憂慮していることが窺える。右翼人士を活気づかせるからである。事実、右翼を刺激しないよう事件は翌年まで公にされなかったという(解説)。

二日前の記述では、入江が小堀杏奴の「晩年の父」を読んだとある。このあたりが日記の面白さで、世情が不穏になっても個人の生活は普通に営まれているのである。杏奴は森鴎外の次女で、森茉莉の妹にあたる。

そういえば森茉莉のエッセイに杏奴のことが(何度も)書かれていて、例えば茉莉が東京女子高等師範学校附属小学校の5年生だか6年生の頃、別の小学校に通っていた杏奴が教師とともに突然、教室に現れた。杏奴が騒いで抑えきれないため、教師が姉の学校までわざわざ連れてきたというのだ。連れてこられた杏奴は、茉莉の席の隣にちょこなんと座る。そのとき、茉莉は「なんでこんな妹が生まれてしまったのだろう」と思ったという。

横道にそれたけど(英語で「横道にそれる」はwanderというのを今日知った)杏奴の「晩年の父」と二・二六事件が同時代であるということを体感させてくれるのも、日記の魅力なのである(つまり鴎外はとっくに死んでいるわけである)。


7月19日

買いそびれていた坪内祐三・福田和也対談集『無礼講』をようやく買って、ちょびちょび読んでいる。雑誌初出時に読み逃した回が結構あるため、初見のものが結構あるわけである。ある回で、坪内祐三が「自分が書いてきたものはすべて自伝か日記だ」と云っていた。たしかにそうかもしれない。というか、そうとしか考えられないかもしれない。そう、考えると、自分語りも違和感はないし、そういうスタイルなのである。でも『変死するアメリカ作家たち』の最終章だけは、やっぱり納得いかない。

まだ終わっていない本のひとつが内田魯庵『思い出す人々』で、ようやく3分の2を終えたところか。ますます面白い。この本はもっと早くに読むべきだった。奥付や記憶を参考にするとこれを購入したのは2001年頃だが、8年もほうっておいたことが悔やまれてならない。だって、これほどためになる明治文学案内があるだろうかという面白さなのだから。

学校の教科書に漱石とか鴎外とかの文章を載せても読みにくい、つまらないだけで、明治文学への関心を招き寄せることなんてもはやどだい不可能なのだから(自分だってそうだった)、魯庵のこのエッセイ(回想文)を代わりに読ませれば、アツイ明治の作家たちの生き生きとした姿を体験できて、よっぽど読者を獲得できるだろうに。教育関係者はもっと考えるべき。

魯庵と硯友社の「中坂」


7月13日

シャラーモフ『極北コルィマ物語』を読了。最近読んだ小説のなかでは一番よかった。今回は図書館で借りたので、いつか古本屋で購入したいものだ。

感動的な話、ちょっとした小話、伝記のようなもの、ユーモア小説などなど、盛りだくさんの内容である。収容所が舞台なのだから悲惨な話が多いのだけれど、ロシアの他の小説がそうであるように、どの短編にもちょっとしたユーモアが感じられる。これはロシア文学の伝統なのだろうか、ロシア人のひとつの特徴なのだろうか。もっと知られていい本だと思う。

ひとつ付箋をはさんだ一文を引用。一番使い物にならない作業班の、一番ダメな作業員である信心深い信徒はある日、管理者の配慮ではじめて腹いっぱいの食事を与えられ、労働作業に入った。すると突然、彼は霧のたちこめる暗闇へ歩き出し、警告を無視して銃殺される。
そのときわたしははっとして寒気をおぼえた。そうか、あの給食が、自殺するだけの力を信徒に与えたのだ。わたしの相棒が死を決意するのに足りなかったのは、一杯のカーシャだった。死の意志を失わないために、時には急がねばならないことがある。

魯庵『思い出す人々』を読んでいたら、一度読んだことのあるような文が何度となくでてきて、おやと思ったら、この間読了した坪内祐三『極私的東京名所案内』でまさしく引用されていた部分だった。

魯庵の本では、紅葉・美妙らの「硯友社」ができた頃の思い出を語る一節で、中坂というトポスが語られている。坪内祐三のこの本(つまらないのだけど面白い本である。面白いけどつまらない、ではない)には東京の文学スポットとしての中坂に一文が割けられていて、中坂での魯庵と硯友社の偶然の交錯が紹介されている。

私の気になったエピソードを書くと。硯友社の雑誌『我楽多文庫』の第一号には石橋思案(外史)という人の序文が置かれていた。魯庵は書店に並んですぐ購入するが、この石橋思案が、魯庵の知る、近所の都々逸をよくする青年だと知るのはしばらく後のことである。後に硯友社派の文人たちと対立することになる魯庵の面白い過去の話である。

2009年7月13日月曜日

貴重な日記を480円で購入した


7月10日

数年ぶりに古本屋「天牛書店」へ行く。ここは鉄筋二階建てに古本が所狭しと並べられている有数の古本屋。しかも値段も安いときている。文庫は50円から、単行本も100円から手に入る。いわゆるベストセラー本ばかりではなくそこそこ読める本が300円均一カートに置いてある。洋書も300円からあって、つい、読みもしないのに買った洋書は数十冊になるだろう。今回も9.11テロについてのアメリカ政府の正式な報告書なんぞも買ってしまった。きっと読むことはないだろう(後日、序文をちょっと読んだけど)。

で、今日の収穫はやはり『入江相政日記』『高松宮日記』。昭和史第一級の資料がナント1冊480円から。

『入江日記』からひとつ取り上げると、入江は戦前のある日ある夜、辰野隆の長谷川如是閑論を読んだと書いてある。辰野はフランス文学者なのに、如是閑論を書いたことがあるわけですか。面白そうだ。

追記。そういえば、森茉莉が仏文和訳の仕事かなにかをしたとき、辰野隆にみてもらったとエッセイで書いていた。「夫だった人」(森茉莉の口癖)のつながりで、結構親しい間柄だったらしい。

7月11日

この前後数日、睡眠障害が悪化して何日に何を読んだかはっきりわからない。たぶんこの日は少なくともシャラーモフ『極北コルィマ物語』内田魯庵『思い出す人々』を読んだ気がする。

短編集『コルィマ』で印象的だった短編をひとつ書いておくと、盲目の牧師とその妻と飼っている山羊の話(羊だったかも)。収容所には直接関係のない小説で、盲目となった牧師は山羊の世話を唯一の生きがいとして暮らしている。牧師は山羊の乳を売る収入で生活ができていると信じているが、山羊の餌代が高いため支出のほうが多く、本当は山羊を手放さないと生活ができないほどだった。妻はその事実を牧師に伝えることはできない。牧師は山羊の乳搾りをとても愉しみにしているからだ。

しかし、いつまでも隠すことはできない。家具や服など、売れるものはすべて売った。このことも妻は牧師に話していなかった。真実を知った牧師は、最後の財産である金の十字架を砕いて、妻に売るよう伝えるのだった。

7月12日

魯庵『思い出す人々』は二葉亭四迷の話が終わって、山田美妙の思い出話に入った。美妙の早すぎる晩年。若干20歳すぎで一流作家となった美妙は、それをピークに(早すぎるピークだ)峠を転がり落ちていく。それは、美妙の交際嫌いの性格と進歩する努力のなさが原因だった。その点、尾崎紅葉は真面目だった。作家たちとの付き合いを大事にし、新旧問わず、どんどん本を読んで、新しい知識を増やしていった。そうして紅葉は文壇の大御所となり、現代にまで名を残す文豪となったのである。

2009年7月9日木曜日

辰野隆と松井須磨子(両者の関係は全くない


7月8日

『森茉莉全集 7』を適当に読んでいたら、いくつか「おっ」というような記述、というか名前がでてきた。

森茉莉の最初の夫、山田珠樹と出会った頃の話を読んでいると(結構同じ内容の話が何回もでてくる)、山田とパリに滞在していた頃のこと、山田が何人かの友人とよく議論をかわしていたのをそばで見ていたとある。その友人のひとりが、辰野隆(まもる、と読むのを初めて知った)。

坪内祐三『文学を探せ』を読んだときに面白かった本の話のひとつが、辰野隆を描いた本を紹介するくだりだった。意外なところで繋がった。

Link : 辰野親子(6月17日)

もうひとつ。森茉莉が演劇の話を書いていて、松井須磨子という女優の話をしていた。須磨子……どこかで聞いたなと思えば、直前に読んでいた坪内祐三『極私的東京名所案内』にまさしく須磨子の自殺話が書かれていたのだった。

森茉莉によれば、芸術座によるトルストイ原作の『復活』が大変好評を博し、劇中歌「カチューシャの唄」を歌った松井須磨子が大人気となった。須磨子は芸術座の岩野泡鳴の恋人として劇団で横暴をふるっていたが、岩野の死後、劇員たちから疎まれ、その辛さに芸術座の二階で自殺をしたという。

まったく同じ話が坪内祐三の本にも出ていて、ただし、芸術座という名は須磨子自殺当時は芸術倶楽部と変わっていた。この本では、この芸術倶楽部の隣にある酒屋(飯塚酒場)が文学史的に名所であるということで、紹介されているのである。

2009年7月8日水曜日

幻のモラル


7月7日

シャラーモフ『極北コルィマ物語』の本編を読み出す。とりあえず100ページほど。ロシア文学といえば長大な小説を思い出してしまうけれど、短編小説にも素晴らしいものがあるじゃないかと教えられる本だ。ひとつのエピソードが長くもなく短くもなく淡々とまとめられ、無駄のない小説ばかりである。文章のはしばしから著者が詩人であることをも思い起こさせてくれる。

解説にあるように、収容所で暮らす囚人たちから道徳がほとんど失われている姿を描いているが、それでも、どんな境遇においても、どれほど数は少なくとも、救いとなる善意がぼうっと灯されているのは、事実だからなのか、はたまた著者のそれこそ善意なのか。

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』 3

第3章は「ナセニェル・ウエスト」。20世紀アメリカの三大小説として『グレート・ギャツビー』『日はまた昇る』とともにウェストの『孤独な娘』があげられるほど評価は高い。だが、生前はほとんど名声に恵まれることのなかった不遇の作家なのである。

1903年、ユダヤ系の家庭に生まれる。10歳にしてドストエフスキーやディケンズらロシアとイギリスの文学を読破するという早熟さをみせたが、学業はふるわなかった。本格的に勉強をはじめたのは大学時代。

2009年7月7日火曜日

君主は大変なのであーる


7月6日

この間読んだ山本七平『昭和天皇の研究』について補足しておくと、本書のハイライトである津田左右吉の「自然のなりゆき」という言葉が天皇(もしくは君主一般)についての困難性を解説してくれるだろう。

戦前、軍部や官僚たちは自分たちの意を天皇の意だと国民に偽装し、その結果として国民は玉砕という強迫観念から逃れられない精神状況に陥ってしまった。その挙句の敗戦について、国民はふたつの感想を抱いた。ひとつは、肉親の死に対して、または自分たちの苦痛に対してすべては天皇陛下のため、国家国民のためだったと納得させた感情。もうひとつは、こんな酷い目に遭わせた戦争を統帥した天皇に恨みを抱く感情。

この後者の気持ちは「自然のなりゆき」と云えると津田は書いた。被害者が責任者を問うのは当然のことである。この意味で、軍部や官僚こそが最も反天皇的な行為をはたらき、天皇に責任をなすりつけた張本人である。しかしだからと云って、彼らに真実を、天皇の意志とはつまり軍部や官僚の意志でしかなかったことを告げればいいわけではない。それは前者の敬虔なる感情を侮辱してしまうことにもなるからである。愚鈍な官僚たちのせいで息子を亡くしたと思いたくはないのだ。

したがって、軍部や官僚たちは、二重の意味で天皇を裏切った。(前者に対する)倫理的責任と(後者に対する)政治的責任を天皇に帰せたという裏切りである。いや、もうひとつ、重い裏切りをしてしまっている。それは、天皇に戦争は本意ではなかったとの自分自身の真意を伝えられなくするという恐るべき裏切りである。そしてここに、近代における立憲君主制の困難性があるのである(書く気になったら続きを書きます)。

2009年7月6日月曜日

『森茉莉全集』の重さ


7月5日

昨日土曜日に図書館に行って来て、『森茉莉全集』の第6巻と第7巻、さらにシャラーモフ『極北コルィマ物語』を借りてきた。

『森茉莉全集』はあまりに分厚くて、こりゃ二冊も同時に借りるんじゃなかったかなと後悔しつつも、とりあえず森茉莉の連載エッセイ「ドッキリ・チャンネル」を一瞥したかっただけだからよしとしよう。適当なところをいろいろ読んでみたら、夢中になってしまった。

テレビ番組を茉莉流に料理するエッセイとはいえ、父鴎外の思い出や文人たちとと交流の話が半分くらい占めているような、そんな存在感。森茉莉は鴎外を心の底から尊敬し好きだったのだなと思わせる言葉がたびたびある(もっとも、小説では鴎外はイマイチで室生犀星のほうがずっといいとも書いているけれど)。

いつか古本で手に入れたいものである。

シャラーモフのほうは友人のオススメ本で、図書館で探してみたら珍しい本なのにあったので早速借りた。旧ソ連時代の収容所に17年間放り込まれたシャラーモフによる、体験的短編小説集。ドストエフスキーやソルジェニーツィンの収容所小説や北朝鮮の収容所ドキュメントが大好きな私に、新しい世界がやってくるかもしれない。というのは、本書の解題で訳者はソルジェニーツィンとシャラーモフを比較して、前者は収容所でも人間は人間的に生きられると考え、後者は人間的なものが根底的に脅かされると考えていると説明している。シャラーモフは性悪説なのである。

他にはこの数日で、保坂和志『言葉の外へ』とか10冊くらいの本を開いた。保坂和志の本は、開いて驚いた。もうすでに7割方読んだ形跡がある。このエッセイ集のいくつかのエッセイは読んだ覚えが確実にあって、しかも印象的な話(カフカとかベンヤミンとか)が多くていい本なのだけど、あと少し読めば読了感が得られるのにこんな中途半端なところでやめていたのはなぜだろう。これからたびたび読んでいこう。

2009年7月1日水曜日

山本七平をひさしぶりに読んだ


6月30日

山本七平『昭和天皇の研究』を読了。昭和天皇が自分自身をどのように「自己規定」していたかをテーマにした本。内容は充実。とくに、杉浦重剛や津田左右吉の話が詳しく、勉強になった。

本書にあるように昭和天皇自身は自分を「立憲君主」として厳格にすぎるほど律していたのは事実で、これは近代国家としては理想的ながら、反面数々の不幸をもたらしたのも哀しい現実である。昭和天皇は「立憲君主」という立場の困難さを歴史をもって明らかにしたと云える。

この天皇の「自己規定」を培ったのが杉浦重剛らの教師たちであった。つまり、彼らもまた、近代国家の理想を実現しようとした。彼らはすぐれて近代主義者であった。それが昭和10年代の悲劇を結果としてでも招いてしまったとしたら、それは昭和天皇や杉浦らに責めがあるのではなく、近代立憲君主国家それ自体の限界であるように思うのである。

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』 2

第2章は「ハリー・クロスビー」。1898年生まれの詩人で、いわゆる「失われた世代」のひとり。そもそも「失われた世代」というのは俗にいう第一次大戦によって青春が失われたという意味ではなく、近代工業化によって地方の伝統や地域性を奪われて育った世代のことを意味する。故郷を失われた世代であるのだ。

そんな世代のひとりで類まれな知性に溢れたクロスビーは、ヨーロッパ風の近代化を表面的に取り入れ続けているアメリカという現実に我慢がならなかった。リアルでないもののように思えた。このリアルを求めて、クロスビーは入隊する。しかし、戦場で彼が目にしたのは、死、つまりリアルなものなどこの世になにもないという「死のリアリズム」であった。

除隊したあと、ハーバード大学の学生から殊勝にも銀行員となりパリで勤務はじめたクロスビーは、放蕩と文学の生活に溺れる。あらゆる本を読破していくなかで最も好んで読んだのはランボーとジョイスだった。彼は詩人を目指す。銀行を辞めて自ら出版社を起こしたのも、自分の文学のためであった。自分の作品を出版し、文学者たちと語らうための場であった。

クロスビーはいつしか太陽に魅せられるようになる。「死のリアリズム」を克服するのは、本当の不滅、すなわち太陽であった。死をことごとく永遠化させることができるのは太陽だ、という考えに囚われていった。そうしてクロスビーは、自らをひとつの作品として自殺をしてしまった。時間という圧政から自由になるために、不滅を得るために。