2013年4月8日月曜日

コバケンと大阪フィルハーモニーの音楽を聴く

3月某日

庄司紗矢香があるインタビューで「日本ほどコンサートホールに恵まれた国はない」と云っていたが、事実、クラシックをメインにしたホールが、それも世界的にも音響の優れたホールが、日本各地にあるらしい。

その中のひとつ、大阪市にあるのが「ザ・シンフォニーホール」。ここで3月、小林研一郎指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団演奏の「炎のチャイコフスキー」コンサートが行われると聞いて、早速行ってみた。もちろん初めて。


  ザ・シンフォニーホール / 外観

あいにくの雨。思ったより古い建物で、場所的にも建築的にも中途半端な感じがするが、館内はさすがと思わせる豪華さ。……だと思ったが、いま改めてみると昭和の匂いがプンプンしてくる装飾である。

  ザ・シンフォニーホール / 1階

1982年に完成した日本初のクラシックホールらしいので、もうすでに歴史の一幕を飾っているのかもしれない。

小林研一郎指揮・大阪フィル演奏 炎のチャイコフスキー

-プログラム-
■ P.チャイコフスキー
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
(encore)
■ イザイ
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第2番イ短調より第一楽章
(休憩)
■ P.チャイコフスキー
交響曲第4番 ヘ短調 Op.36
(encore)
■ ブラームス
ハンガリー舞曲 第5番

指揮 : 小林研一郎
ヴァイオリン独奏 : 有希マヌエラ・ヤンケ
演奏 : 大阪フィルハーモニー交響楽団

SITE : ザ・シンフォニーホール
DATE : 2013.3.20.

ギリギリでチケットをとったため座席は2階席。それでもA席5,000円(最上位)で、はたして音響は大丈夫なのだろうか。

ホールに入った瞬間はそれはもう驚いた。これが初めて体験するクラシックホールか。
  ザ・シンフォニーホール / ホール内部 (公式サイトから)

ホールの大きさは控えめにしてあるので2階席でもそれほど遠くは感じないが、舞台上の人の顔がはっきり判別することはできない程度には遠い。でも、2階席は演奏者の全体が視野に入るので、後方の管楽器の様子を見たい私にとっては最適なのかもしれない。

構造はさすがの豪華さで、木材をベースとした1つの箱の中を金属の装飾で隈なく彩った芸術品といったふう。かといって重苦しくはなく、ふんだんに使用された木材によって落ち着きが得られるし香りもよい感じがする。

さて1曲目はヴァイオリン協奏曲。

ヴァイオリン・ソリストは有希マヌエラ・ヤンケさんで、日独ハーフの若手演奏家。日本音楽財団からストラディヴァリウスを貸与されているらしく、実力も折り紙つきなのだろう。個人的には、初めて聴くストラディヴァリウスの音色を楽しみにしていた。

演奏がはじまって音響の良さにまず驚いた。これほどの距離を隔てても、ひとつひとつの楽器、ひとつひとつの音が輪郭をもって伝わってくる。輪郭といっても刺々しいものではなく、明瞭さのことである。それぞれの音が混ぜられて塊となって届くのではなく、区別されつつ、メロディや和音となってそのままに伝わってくる。

ストラディヴァリウスの音はそれはもう綺麗のひと言。聴こえてくる旋律はあまりに美しかった。濁りも歪みもない透き通った音がホールに響き渡っていた。そして有希さんの奏法もこれまで聴いたヴァイオリニストとは違った、とてもエレガントなもの。けして派手派手しくもなく、かといって淡白でもなく、ヴァイオリンの音の美しさをストレートに伝えてくれる弾き方だった。

指揮者のコバケンこと小林研一郎氏は、ビギナーには初耳の名なのだけれど、小沢征爾らと並び評されるほどの有名な方で、「炎」という形容がほとんど常になされるアツイ人らしい。(この後の交響曲第4番で本領を発揮するのだが、)実際に見たコバケン氏は、当日の私のメモをそのまま使えば「頭を振りながらダイナミックに指揮をとる姿が印象的で、オーケストラをまさに操っているかのようだった」。後日、コバケン氏の本を購入させてもらいました。

で、そのコバケン氏指揮の協奏曲は終わり方がいつも聴いている感じとちょっと違うように聴こえ、でも今ではよく覚えていないので、このコンサートはそのうちテレビ放送されるらしいから、それを観てからそのあたりをじっくり聴き比べたい。

大きな拍手で曲が終わると、ここでアンコールがあり有希さん独奏のイザイ作曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタが演奏された。どこかで聴いたことのあるようなフレーズが目まぐるしく入れ替わる曲で、ちょっと驚いた。ホール全体にヴァイオリンの音だけが響くのは美しかった。

休憩を挟んで2曲目の交響曲第4番。有希氏は不参加。

チャイコフスキーの交響曲は第5番と第6番ばかり聴いていたので、第4番ははじめて聴くのも同然。カラヤンのCDで1回流したことがあるがイマイチと早合点してしまったために、それっきり。

しかし、コバケン氏の力なのか、すごい交響曲だった。

実は、冒頭、なぜか激しく咳き込んでしまい、5分くらいはまともに聴いていない(周囲の方ごめんなさい)。咳が落ち着くと今度は異様な眠気が襲ってきてしばらくひとりで苦闘していたので記憶があまりない。でもそれはそれなりに理由があって、第4番の第1楽章は第5番のようには劇的な展開があるわけでもなく比較的平凡な曲(だと思う)なので仕方ないと云えば仕方ない。

でもやがてコバケン氏の動きがいよいよ荒々しくなってきてオーケストラが生き生きしてくると、俄然眠気も消えうせ集中してくる。

たとえば、第2楽章に入ると一転、叙情的なメロディが続き、緩やかに旋律が続く。コバケン氏の指揮の特徴として、ゆるやかなパートではできるかぎりゆったりと、激しいパートでは勢いを全力で推し進める、そういうメリハリがはっきりしている。それは、作曲者の真意をできうるかぎり掴もうとする氏の意図がはっきりと反映されているからだろう。

そして第4楽章は圧巻だった。いきなりの大音量ではじまるそれは、息をつかせぬくらいの勢いで最後まで達する。べつに好きなタイプのメロディではないのだが、勢いだけは圧倒的である。頭を振り乱し、おかっぱのような髪の毛が高速で左右に振り子するコバケン氏の姿そのままに、オーケストラもガンガンと盛り上がっていく。

曲が終わると、10人くらいの客がスタンディングオベーションをしていた。よくわからないが、それほどの迫力ではあった。終演後にコバケン氏は、2週間前にロンドンで交響曲第4番を収録したばかりなのだがそれに勝るとも劣らない演奏を大阪フィルはしてくれました、と絶賛していた。素人は、ただただ唖然とするばかりであった。

今回は指揮者の存在の大きさがよくわかったコンサートだった。コバケン氏は、その都度、臨機応変に奏者を煽り、抑え、つまりはオーケストラを差配していたように思う。コバケン氏あってのコンサートだったのは間違いない。

〈 2013.6.12.コバケンの「炎の7番」レポートも書きました 〉


2013年3月24日日曜日

チャイコフスキーとオーケストラ

1月某日

youtubeでチャイコフスキーを聴いたのをきっかけに、すっかりクラシック狂となってしまい、ほんの出来心でコンサートのチケットをとってしまったのははたして良かったのかどうか。クラシックは結構お金がかかるわけである(といっても本の購入額も結構高額と云えば高額)。

クラシックといってもチャイコフスキーしか知らないド素人。『北京ヴァイオリン』という映画が好きで、映画の中ではチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲がメインに使われるからその曲が馴染み深く、しかも名曲で、youtubeでは庄司紗矢香のヴァイオリン協奏曲を何度も(100回くらい?)聴いている。


 チャイコフスキー / ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品35

そして、チャイコフスキーの他の曲もまたすばらしいものがあって、なかでも交響曲第5番は言葉にならないほどの高揚感を与えてくれる。これも50回以上は聴いたか?


 チャイコフスキー / 交響曲第5番 ホ短調 作品64

この感動をぜひとも生で聴かなければと思いチケットを探すと、ちょうどチャイコフスキーの曲をやってくれるコンサートが2週続けてあるではないか。しかも後のほうはチャイコフスキーだけを演奏してくれるという、私にとっては天啓に導かれたかのようなタイミングだった。

ヒビキミュージックオーケストラ 第4回定期演奏会

1つめは1月20日(日)、ヒビキミュージックオーケストラによる「第4回定期演奏会」で、場所はメルパルクホール大阪。
-プログラム-
■ M.グリンカ
歌劇「ルスランとリュドミラ」 Op.5 - 序曲 -
■ P.チャイコフスキー
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
■ リムスキー=コルサコフ
交響組曲「シェヘラザード」Op.35
(encore)
■ チャイコフスキー
弦楽セレナーデ ハ長調 Op.48 第二楽章「ワルツ」

指揮 : 高谷光信
ヴァイオリン独奏 : 杉江洋子
当日の2週間前にチケットを購入したにもかかわらず、座席は前から2列目という僥倖。空席はそれほどなかったので、たまたまかもしれない。しかも、ヴァイオリン独奏の杉江洋子さんの演奏がよく見える右側の位置だったから、存分に堪能できた。

1曲目はもちろん知らない曲だったか(何しろ素人)、オーケストラの迫力をまず体感することができた。

そしてメインのヴァイオリン協奏曲。

この曲から杉江さんが登場し(3曲目も引き続き弾いていた)、よく聴き慣れた弦楽器のメロディからフルートのような音が加わって、いよいよ独奏が始まってからはもう感動するばかり。身体中がこわばったような高揚感をずっと感じながら聴き惚れていた。

ヴァイオリンの独奏には結構な力がいるのが間近からはよくわかり、杉江さんはときどき汗を拭いながらもすばらしい演奏を聴かせてくれた。

3曲目はシェヘラザード。曲は知る由もないが、昔読んだ浅田次郎の同名の小説をふと思い出しつつも意味がなかったので無駄だった。かの有名なアラビアンナイト(千夜一夜物語)に語り手として登場する架空のイランの王女の名前がシェヘラザードである。この曲がどういった由来で作られたのかは知らない。

とにかく美しい曲であった。知らない音楽を40分以上も弾いて聴衆(私)を眠たくさせないのは実はすごいことで、曲自体の魅力もさることながら、オーケストラの完成度の高い演奏のたまものだろう。

大阪交響楽団 チャイコフスキー・プログラム

翌週の26日(土)は、枚方市市民会館大ホールにて、大阪交響楽団による「チャイコフスキー・プログラム」を聴く。

会場はごくふつうの、どこの市町村にでもあるようなホールで、客層も地元のごくふつうの人たちばかりだったが、演奏はこれがまたすごかった。
-プログラム-
■ チャイコフスキー
歌劇「エフゲニー・オネーギン」より“ポロネーズ”
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35
交響曲第5番 Op.64
(encore)
■ シベリウス
アンダンテ・フェスティボ

指揮 : 寺岡清高
ヴァイオリン独奏 : 長原幸太
アンコールを除く3曲はすべてチャイコフスキーで、特に、youtubeで聴いてとても気に入っていた交響曲第5番を演奏してくれるのを楽しみにしていた。

開演前に指揮者とソリストのトークがあった。ヴァイオリニスト長原さんの紹介や、チャイコフスキーについて。第5番については、「ロマン派の曲で、作曲家の人生観をどう曲に投影させるか」という背景のある交響曲であるということ、最初に奏でられるモチーフが何度も形を変えて登場するのでそのあたりを楽しんでもらえたら、などの話があった。最後の「50分の人生体験を」という指揮者寺岡さんの言葉はとても印象的であった。

ポロネーズはよくわからず、2曲目のヴァイオリン協奏曲が始まる。先週は女性のヴァイオリニストだったが、今日は男性の実力派の演奏で、感想としては演奏者によってこれほど違うものかと思った。

杉江さんの情熱的な演奏とは180度違った冷静沈着な長原さんの弾き方は、ちょっと寂しく感じられた。演奏中は観衆を睥睨するかのように視線を客席に向け、堂々たる姿勢は頼もしくもあったが音楽を楽しんでいるふうには見受けられなかった。技術はさすがのものがあったが、個人的にはあまり楽しめなかったことは否定できない。

休憩を挟んでいよいよ交響曲第5番。前半は前から5列目くらいの右側に座っていたのだが、どうも音がよろしくない。音のバランスがよくない位置なのである。普通の公民館みたいなところだから仕方ないのだが、せっかくのオーケストラ、せっかくの交響曲第5番なのだからと後方の真ん中の席に移動してみた。最後列のほうは結構空席があったのだ。

これが大正解で、舞台から結構距離はあるのに、演奏が間近でなされているような音量で聴くことができた。この点だけでも、オーケストラの迫力が知れた。

第5番の冒頭から、いつも聴いていたクラリネットのフレーズが聴こえ始めただけで鳥肌が立つ。のんびりした2、3分が終わって弦楽器が参加し始めると一気にオーケストラが最高潮に達し、それからは静けさと高まりとが交互に繰り返されていく。すべての楽器がどこかで必ず顔をだしてくれる。ひとつの物語を読むように、音楽に筋書きがあるかのように感じられる。事実、物語があるのだろうと思う。CDで聴く第5番と本物とはこれほどまでに違うのだろうか。

身体が恥ずかしげもなく音楽にあわせて動いてしまうのは、チャイコフスキーと大阪交響楽団オーケストラの力だったろう。このような体験は、ドストエフスキー『罪と罰』を初めて読んだとき、モネの『日傘をさす女性』をはじめとした印象派の絵を観たときぐらいしか得られなかったものだ。

曲が最後のほうににさしかかってくると、あまりに大きな寂しさが襲ってくる。このままずっと聴いていたいという気持ちを抑えきれないが、そう思っているうちに終わってしまった。終焉も見事なチャイコフスキーであった。アンコールのことは何も覚えていない。

本当に行ってよかったなと思う。心からの感動というのは、初心者のときでしか味わえないものだから。




2012年12月25日火曜日

感情のルーベンス - リヒテンシュタイン展

12月某日

ルーベンスは有名なのだろうけど、ルーベンス展というものには行ったことはなく、いくつかの美術展で見かけても取り立てて印象に残ったことはない。

例えば、フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展でみた「竪琴を弾くダヴィデ王」も白髪に表れる素晴らしい表現力には感動したが、それがルーベンス個人の関心へとは向かなかったし、大エルミタージュ美術館展の「ローマの慈愛」はちょっと目を背けたくなる奇妙な場面が記憶に残って、その筆致の独特さには注意が向かなかった。

  ルーベンス / 竪琴を弾くダヴィデ王 1616年頃-1640年代後半 ※展示なし

  ルーベンス / ローマの慈愛 1612年頃 ※展示なし

だけど、マウリッツハイス美術館展に飾られていた「聖母被昇天」には単なる宗教画を超えた魅力が感じられて、画家本人の「思い」といったようなものをチラリとうかがい知ることができたように思った。

  ルーベンス / 聖母被昇天(下絵) 1622-25年頃 ※展示なし

そして、リヒテンシュタイン展のこのチラシ。

これまで見たルーベンスとは全く領域の違う、あまりにも人間的な(現実的な)人物がこちらに語りかけるように描かれている絵を目にして、なにか感覚を揺すぶられるような感じがした。こんなことは初めてあった。

  リヒテンシュタイン展チラシ / 開催前バージョン


(つづく)

2012年12月5日水曜日

シャルダン、地味の品格
   - シャルダン展(三菱一号館美術館)

12月某日

国立新美術館のリヒテンシュタイン展を、そのバロック・サロンをどうしても体感したいと焦りを感じて急遽東京へ一泊。

延べ5つの美術展を回ったなかで、まず2日目の日曜午後に出向いた三菱一号館美術館のシャルダン展を簡単に。

シャルダン展 ― 静寂の巨匠

公式サイト : シャルダン展 三菱一号館美術館

東京駅周辺の4つの私立美術館(ブリヂストン、三菱一号館、出光、三井記念)のうち、夏に行ったブリヂストン美術館(ドビュッシー展)はなかなか立派な美術展を開催していて、(財団とは云え)日本の企業もなかなかいい金の使い方をするもんだと感心したものだが、初めて行った今回の三菱一号館美術館はまず贅沢な建物に驚かされた。

  三菱一号館美術館 / 茶色の建物

  シャルダン展入口 / 枯葉の落ちた木にピント

特に高層であるわけでもなく派手さもないのだけど、ヨーロッパの街並みを再現したらしき中庭と100年以上前からそこにあるかのようなレンガ造りの建物があまりに贅沢。

なかに入ってみて、さらに贅沢すぎてまいった。

  奥の展示室入口に続く廊下

2010年に完成したこの美術館は、イギリス人の建築家ジョサイア・コンドルが設計し1894年に完成した洋風建築(1968年に解体)を復元したものだという。1894年と云えば日清戦争の年だ。

外観だけでなく内装や構造も当時のままを再現していて、だけど各展示室をつなぐ扉がガラスの自動ドアだったりエレベーターがスケトルンだったり、新しい設備をふんだんに盛り込んでいる。なかを歩いているだけで楽しい。靴音が響く床板には賛否両論があるようだが、個人的にはほどよくカツカツするのはいい気分である。

シャルダンのどこまでも地味な静物画と人物画

ジャン・シメオン・シャルダン(1699-1779)はフランスの画家。時代はちょうどロココの全盛期だが、シャルダンの絵はロココ風ではないのは明らか(個人的にはロココは苦手。みたことないけど)。もっとも、シャルダンについては相変わらずまったく知らず、木いちごをてんこ盛りにした絵ぐらいはみたことあるなという程度で、実際に絵をみてはじめて知ることばかりであった。

最初、会場で静物画ばかりが飾られているのをみてそれに関心があまりない人としては「こりゃつまらないかな……」と元気がなくなったが、三菱一号館の雰囲気がよかったせいが、結構楽しむことができた。

  シャルダン / 台所のテーブル 1755年

静物画といっても、オランダ絵画にあるような究極のリアルをつきつめた精緻すぎる静物画とは違って、シャルダンのそれはとにかく地味。グラスの透明感をこれでもかと表現し尽くしているわけでもなく、よくある頭蓋骨が置いてあるわけでも、知性をほのめかす書物や富を象徴する装飾物が置いてあるわけでもない。

湿気を表現したかのような暗さ・ぶつぶつ感がすべての絵にあり、ふつうは隠すべき家の裏側である台所が舞台である。それなのに、この作品のように、絵に品を感じてしまうのはなぜだろう。物の配置、色彩、すべてに品がある。

今回はカタログを買わなかったので、その秘密はよくわからない。

  シャルダン / 木いちごの籠 1760年頃

個人蔵の「木いちご」はみることができるだけで貴重らしいのだが、たしかに美しい絵である。ぶどうやりんごといった迫力のある果物ではなく、それぞれは小さな木いちごを籠に載せられるだけ載せてひとつの大きな、それでいて小さな果物をつくったかのようである。その表現の仕方も、地味な色合いながらも、いまにも(籠からだけでなく絵から)零れ落ちそうな「甘さ」が伝わってくる。たしかにおいしそうだ。

しかし、なんといっても、私がお気に入りだったのは人物画。

  シャルダン / 羽根を持つ少女 1737年

これも個人蔵の作品で、所有者から画像は広告などに使用してはならないと厳しく制限をかけられているため、公式サイトはもちろんチラシにも紹介されていない貴重な絵画。

あまり人間味がなく、人形のような描写である。実はそこに魅力があって、ざらざらした質感で全身がスエードのように見えるが、とても愛くるしくてかわいい。こればっかりは実物でしか伝わらないかもしれない。

この作品のヴァリアントも同時に展示されており(ウフィツィ美術館蔵)、シャルダンが自らの筆で複写したのか別の画家による模写なのかは現在わかっていないのだが、この同じ構図の絵を同じ部屋で見比べることができる。そうして実感するのは、ヴァリアントの作者はシャルダンではないということ。明らかに描き方が違うのである。ヴァリアントは造形の筆運びがギクシャクしており他人が写した感があって、なにより、ひとつの統一した精神が描いた作品には思えなかった。

それだからこそ、シャルダンの「羽根を持つ少女」の魅力がいっそう際立つ。シャルダンというセンスが描き上げた完璧な絵。画風は肖像というより漫画的なのだが、派手さのないどこまでも地味な描き方にどこかしら品を感じてしまうのが不思議だ。品のあるデッサン、といったら失礼か。シャルダンにしか描けない絵であろう。

この絵は当然のことながらポストカードにしてもらえなかったため、カタログでしか味わえない(なのに買わなかった自分を恥じる)。いまキーボードを打っているこの瞬間に、もう一度見たくなってきた。

  シャルダン / 食前の祈り 1740年

これはとても有名な絵らしく各国の王侯が求めたほどの人気を集め、シャルダン自身によるヴァリアントがいくつか存在し、今回はそのうち2作品が並べられた。私はあまり興味はそそられなかった。


会期は来年(2013年)1月6日まで。シャルダンを知っている人も知らない人も、特に三菱一号館美術館に行ったことのない人には、絶対におすすめできる美術展であった。







2012年11月21日水曜日

美術展 2013年 = 今年の見どころ


リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝

開催期間 : 2012年10月3日 - 12月23日

開催地  : 国立新美術館、六本木、東京

開場時間 : 10:00 - 18:00 (金曜日は20:00まで)

公式サイト : リヒテンシュタイン展 東京

高知展

開催期間 : 2013年1月5日 - 3月7日
開催地 : 高知県立美術館

京都展

開催期間 : 2013年3月19日 - 6月9日
開催地  : 京都市美術館


ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア

開催期間 : 2013年3月9日 - 4月21日

開催地  : Bunkamuraザ・ミュージアム、渋谷、東京

開場時間 : 10:00 - 19:00 (金・土曜日は21:00まで)

公式サイト : ルーベンス展 東京

北九州展

開催期間 : 2013年4月28日 - 6月16日
開催地  : 北九州市立美術館

新潟展

開催期間 : 2013年6月29日 - 8月11日
開催地  : 新潟県立近代美術館


ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展-パリの夢 モラヴィアの祈り

開催期間 : 2013年3月9日 - 5月19日

開催地  : 森アーツセンターギャラリー、六本木、東京

開場時間 : 10:00 - 20:00 (火曜日は17:00まで)

公式サイト : ミュシャ展 東京

新潟展

開催期間 : 2013年6月1日 - 8月11日
開催地  : 新潟県立万代島美術館

松山展

開催期間 : 2013年10月26日 - 2014年1月5日
開催地  : 愛媛県美術館

仙台展

開催期間 : 2014年1月18日 - 3月23日
開催地  : 宮城県美術館

札幌展

開催期間 : 2014年4月5日 - 6月15日
開催地  : 北海道立近代美術館






2012年11月17日土曜日

ジャンルはバラバラ、本もいろいろ。ついでに人間もバラバラ

11月某日

原点に返って最近読んだ本について。

今年の6月からぼちぼち読み始めていた名著をようやく読了。だが・・・。


『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD・H・ロレンス(1885-1930)が最晩年にキリスト教批判を展開した本。ロレンスは一流の文学者であるのはもちろんだが、実は批評・評論も数多く手がけており、歴史書も書いた。本書は、幼いころからキリスト教の厳格な家庭に育ったロレンスが、その生涯と自分が生きた時代を猛烈に悪罵する自己批判の書でもある。

この『黙示録論』は最近ちくま学芸文庫に収録されたもので、実際に私が読んだのは現在は絶版の中公文庫版。タイトルも『現代人は愛しうるか  黙示録論』といい、訳者の福田恆存が原題の「黙示録論」では意味がわからないだろうからこのタイトルをつけたという訳書で、初刊は戦後まもなくのことである。ちくま版は同じ訳書をタイトルを変えて刊行している。

ではなぜ福田恆存はこの「黙示録論」を「現代人は愛しうるか」と読みかえたのか。それこそまさにロレンスの云いたかったことであり、本書のクライマックスである。

ロレンスはクライマックスでこう叫んでいる。

近代の私たちは、キリスト教の(とくにその聖書の)掲げる理念によって、互いに譲り合い、助け合い、理解し合うことが、つまり愛し合うことができないのだ。――

いやキリスト教こそ人々の愛を説いているのでは? と誰でも思う。隣人を愛せ、敵を愛せと繰り返す聖書は理想的な教えではないのかと。聖書の教えを実践できない人間の弱さこそ、問題なのではないか。……

しかし、キリストの云うように行動することが、卑屈な精神から自由でない人間に本当に可能であるのかとロレンスは問う。

確かに人がひとりでいるときには普段より高みに立って考えることはできるだろう。だが、人がふたり以上集まればそこには必ず優劣の意識がうまれ、権力が働く。相手を賞賛する言葉の裏にも、避けがたくそれを否定する言葉を精神に同居させ、精神上の権力者であろうとするのが人間だ。つまり、人はキリストにはなることはできない。精神の貴族になることは、人が集団で生きる以上、どだい不可能なことなのである。

であるとすれば、貴族的精神の不可能性を逆説的に知らしめる聖書こそ、人と人とを和解させることを妨害している最大の原因であると云えるのであって、聖書がありうべくもない理想を説くことさえしなければ、そのほうが、実は人は理解し合えるのではないか。理想があるから人は苦しむのだ。

その聖書の欺瞞性を自ら明らかにしているものこそ、黙示録と呼ばれる新約聖書の一書である。

(以下、続く。)


新潮社
発売日:2012-01-20



文藝春秋
発売日:2012-08-03


講談社
発売日:2012-08-02

「カラマーゾフの兄弟」の続編を謳った小説であるが、駄作。「書かれざる続編をいまこそ完成させよう」という著者の意気込みだけが勇ましく(しかも、本の扉に自分の写真を使うだろうか?それを最初に見て嫌な予感がしたものだが)、仕上がった作品はとても一流とは云えない。

ミステリとしての面白みはあるかもしれない。最後の50ページほどはちょっとスリリングであったから。だが、「人物」があまりに貧相で、こんな薄っぺらな言動をする人たちだったろうかと「カラマーゾフ」の愛読者たちは皆呆れただろう。

もっとも、「妹」のほうの登場人物たちのほうがよりリアルであるかもしれない。「兄弟」でそうであるような、人があんなに長広舌を振るうことはありえないからだ。だが、それと同時に、「カラマーゾフ」の面白さは死んでしまう。

岩波書店
発売日:2001-04-20



福田和也が絶賛していたので読んだが駄作。章ごとに語り手が異なるのに、語り口がほとんど同じでは冷めてしまう。

この本を読んで家族の有難味がわかったという感想を述べる人がいるが、そんな読後感を得られる力は持っていない。ただただ異質で非現実的な家族がそこにあるだけである。分厚いのに読んで損しました。

2012年11月5日月曜日

絵は箱によって感動に差がでるらしい
  -大エルミタージュ美術館展/東京・京都

10月某日

東京・名古屋から巡回してきた「大エルミタージュ美術館展 京都」。その開催後最初の週末に行ってみた。

公式サイト : 大エルミタージュ美術館展 
東京展 4/25-7/16 ☆
名古屋展 7/28-9/30
京都展 10/10-12/6 ★

といってもこの美術展は初めてではなく、6月、東京まで出向いてベルリン国立美術館展とあわせて観にいったから二度目である。

ベルリン展の記事は
〔 真珠の首飾りの少女 - ベルリン国立美術館展 〕

というわけで、同じ美術展を別の美術館でたのしんだお話。

大エルミタージュ美術館展 世紀の顔 西欧絵画の400年

6月のときのことをふりかえれば、とりあえず午前中はベルリン展(国立西洋美術館)に行くことに決めていて、午後はどの美術館を闊歩するかは当日まで未定だった。そして、西美の館内においてあったチラシをいくつか見比べて選んだのがエルミタージュ展。

   「大エルミタージュ美術館展 東京展」 表

   「大エルミタージュ美術館展 東京展」 裏

東京展のチラシは見開きタイプ。京都は通常のA4で1枚。

   「大エルミタージュ美術館展 京都展」 表のみ

大きなポイントとなったのは、国立新美術館(新美)で開催されていることと、マティスがあるということ。新美もマティスも初めてなのだ。

マティスについては後で書くとして、新美は、完成したころは東京近辺にいたから足を運ぶことはできたはずなのに、当時は美術に関心がなく結局行かずじまい。あのガラス張りの、クネクネした建物が噂になっているのはもちろん知っていたけど、趣味の悪そうな感じがしたし、身近な文筆家の評判が悪かったせいもあるだろう。

   国立新美術館 / クネクネ

当日はカメラを忘れたので写真はなし。痛恨の失敗である。なので、上も含めて、8月に行ったときに撮った写真をかわりに掲載。(そのときは午前中に「具体展」を観にいった。ゴミみたいだった。感想はそのうちまとめたい。)

だが、実際に新美に入ってみたら意外にも(中は)よかった。

   屋内から外を / 3階までの吹き抜け

   高いところが苦手な人にはエスカレーターがまず危険

基本的には、ガラスと打ちっぱなしのコンクリート、それに木目の床板で構成される開放的な空間。

なかでも外光の射し込み具合がなかなかのもの。

   1階のカフェ / 「具体展」が不人気だったためかガラガラ

このあたりの無骨な構造も外のクネクネとは違って良い感じ。

  2階のサロン・ド・テ ロンド(カフェ)へ続く通路を1階から

さて、絵画である。

「西洋絵画の400年」というサブタイトルがあるように、西暦1500年頃から1900年頃までを視野に入れて、ルネサンス、バロックからロマン主義、印象派、ピカソまでと、とても幅広い作品が集められた。

エルミタージュ美術館はロシアの女帝エカテリーナ二世(在位1762-96年)が所有美術品を飾るために建てた宮殿がその始まりで、6つの建物に現在約300万点の作品を所蔵しているという。今回はその中からほんのわずか、89点の作品が日本にやってきたわけだ。

にもかかわらず、作品のレベルは低すぎた。素人が云うのもなんだが、傑作が集められたとはお世辞にも云えない。


(執筆中)

   京都市美術館 / 雨はかろうじて降っていない

   「大エルミタージュ美術館展」カタログ 2012年 2500円