2012年1月25日水曜日

坪内祐三『探訪記者 松崎天民』を読み始めた

1月某日

坪内祐三『探訪記者 松崎天民』(筑摩書房)を読む。

雑誌『ちくま』に15年と長く(とびとびで)連載されていたものの、待望の単行本化。連載中はほどんど読んだことはなかったが、だからこそ一冊にまとまってから読もうと思っていた人物伝である。


坪内 祐三
筑摩書房
発売日:2011-12-05


といっても、松崎天民が誰なのかはまったく知らなかったし、連載時に少し読んだだけではあまり関心はもたなかった。それでも本として読み始めるとものすごく面白い。天民本人の面白さがもちろんあるが、やはり坪内祐三の文章が(その構成が)とても自分に合うのだろう。こうして坪内祐三の本で興味を覚えた人物が何人いるか数えてみたらとてつもない人数になりそうだ。

(蛇足ながら、坪内祐三の本でいまだ読んでいないのは『「別れる理由」が気になって』(講談社)ただ一冊であって、『別れる理由』(小島信夫)にはさほど惹かれないから買ってもいないのだけど、きっと、読み始めたらとまらないのだろうし、小島信夫自身への関心が俄然高まるに違いない。もっとも、小島信夫については江藤淳の『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)を読んで知っているし、『成熟と喪失』がとりあげる小島信夫の『抱擁家族』(講談社文芸文庫)ももちろん持っていたりするのだから、なぜ『「別れる理由」が気になって』を買わなかったのだろうと不思議な感じではある。)

さて本書であるが、まだ100ページ弱しか読んでいないので、松崎天民と、本書に登場する天民に関係する人々についてメモ的に書いておくにとどめる。天民と直接交流のない人も含めて。

松崎天民

明治11年、岡山に生まれる。様々な職業、様々な地域をへて国民新聞の記者となった。読ませるルポルタージュが評価の高いジャーナリスト。


結城禮一郎

明治11年生まれ。坪内祐三によれば、現在過小評価されすぎている編集者、記者。天民の「恩人」として本書にたびたび登場する結城であるが、この名前は私はどこかで見たことが絶対にあって、でも全然思い出せないのだが、ネットで調べてみてもウィキペディアには結城のページがそもそもないという忘却されぶりの人物である。坂本竜馬の関係でその名前が検索によくひっかかるが、龍馬関係で知ったのではないはずだ。たぶん、坪内祐三のどれかの本で知ったのだと思う。

山本露葉

坪内祐三によれば、山本夏彦の父のはず、だとか。天民が連載を持っていた雑誌『小天地』に同じく執筆していたという。調べてみれば、確かに山本夏彦の父であった。

国木田北斗と国木田収二

100ページまでの間にそれぞれ1回登場するだけのふたりであるが、私はおそらくはじめて聞く人たちであるのに、その珍しい名前から国木田独歩との関係を意識してしまうため記憶に残りやすい。

北斗についてはネットではまったく情報がなかったが、収二のほうはみつかった。

国木田収二は国木田独歩の実弟である。明治11年生まれ。結城禮一郎とともに国民新聞の記者を経て、なんと、のちには読売新聞の主筆にまでなったという結構な人物だ。

とりあえず以上。

2012年1月22日日曜日

高橋紘『人間 昭和天皇』上下巻1000ページをなんとか読んでみた

1月某日

高橋紘『人間 昭和天皇』(講談社)上下巻をようやく読了。




遺著として高く評価したいところではあるが、昭和天皇の伝記としては可もなく不可もなくといったところ。

元「記者」の限界なのかもしれないと思うのは、「その都度批評」の底が浅すぎたということ。つまり、基本的に時系列に沿って事象を紹介していくわけだが、その各事象についての分析が表面的で、さまざまな文献からさまざまな引用をすることが目立つばかりであり、腰を落ち着けてじっくり考えるという姿勢はほとんど見られなかったのである。悪く云えば、知識の羅列だ。

たとえば立憲君主制とは何か、元首とは何かの定義づけがないのに、これは立憲君主として逸脱だとか、戦後の昭和天皇は元首ではないとか語られても、(素人ならまだしも)多少知識のある人にとっては違和感ばかり覚えてしまう。

ひとつ例をだすと、訪米直前に組閣があったとき、担当大臣である外務大臣には留任してもらいたいと首相に云ってもよいかと昭和天皇が入江侍従長に相談するくだりがある。入江は当然、云ってはなりませんと答える。著者は「君主の意識が抜けきれない」と批判的にみているが、これは、昭和天皇にとって戦後の最大のイベントであったろう訪米の調整をしている最中にもかかわらず、あいもかわらず政争の影響で大臣がころころ替ってしまうことへの皮肉、いらだちではなかったか。昭和天皇自身の相手国への配慮ではなかったか。すなわち、本書はこれまで公刊されてきた幾多の昭和天皇伝の枠内におさまる程度のものでしかない。

昭和天皇についての本を初めて読もうとする人には、分量の多さと値段の高さはあるとしても、内容の平易さからは格好の本かもしれない。だが、その格好さゆえに、著者の客観性のない(立証的でない)先入観に安易にのせられてしまうかもしれない。私であれば、本書は人には勧められない。

平易、と書いたが、記者出身にしてはあまり文章はうまくない。主語が誰で相手が誰なのかよくわからない文章、引用の仕方が多すぎる。病床にあっては十分に校正ができなかったのかもしれないが、論理的でない文というのは伝記にはふさわしくない。

と、マイナス面ばかりを述べるのもアンフェアなので、本書で面白かったところをいくつか挙げたい。

まず、以前のエントリーにも書いたが、昭和天皇が皇太子時代、欧州を歴訪したときのエピソードで、当時のイギリス王室で刺青がはやっていたということ。国王のジョージ五世をはじめ4人が来日時に刺青をしており、ロシア皇帝ニコライ二世もまた、そうだったという。当時の欧州での刺青人気については、小山謄『日本の刺青と英国王室』(藤原書店)が詳しいらしい。





(つづく)

2012年1月16日月曜日

ルーズリーフとテル・ボルフ - 紀伊国屋書店にて

1月某日

紀伊国屋書店に寄る。

ここでしか売っていないルーズリーフを買うため。だけど、いくら探しても見当たらない。店員に聞いてもつれない返事なので、いささか立腹。もう販売していないのだろうか。

仕方なくネットで調べてみると、販売元に直接注文ができるとわかって、オンラインで注文してみる。

100枚で294円とちょっと割高だが、方眼タイプのルーズリーフでこの質感は最高レベル。方眼のルーズリーフは何種類も使ってみたけど、これがちょうどいい分厚さと書きやすさであった。

etrangerdicostarica B5フィラー100(セクション)アイボリー





アマゾンでさえ在庫は1冊しかないというのは、まさか販売終了なのだろうか・・・・・・。


さて、本屋に来たからには本を買わねばならない。

新書で目についたものを2冊購入。

まず、佐伯啓思『反・幸福論』(新潮新書)

一般的な意味での「幸福論」に対するアンチとしての幸福論(というと矛盾するかもしれないが)。佐伯啓思だから、タイトルにあげられた「幸福論」はもちろん巷に溢れる自己啓発本的な「幸福論」を指すのだろうし、その安直「幸福論」とは対極にある幸福論を語っているのだろう(まだ読んでいない)。

少し期待したのは、福田恆存の『私の幸福論』を踏まえたものなのかなと思ったが、違ったようだ。雑誌『新潮45』に連載していた時事エッセイをまとめたものだという。気が向いたら読んでみよう。




もう一冊は、藤田令伊『フェルメール 静けさの謎を解く』(集英社新書)

単にフェルメールを書名にあげただけでは購入しないが、目次をみてみるとテル・ボルフやデ・ホーホとフェルメールの影響関係が書かれているようなので即購入。

テル・ボルフとデ・ホーホはフェルメールと同時代を生きたオランダの画家で、フェルメールの絵の構図に多大な影響を与えたと云われる結構有名な画家だ。しかも、個人的には、テル・ボルフの絵のほうがフェルメールより好きであるのだからして、当然彼らの関係は気になっていたことだった。グッドタイミングの新刊だ。でも、まだ5ページくらいしか読んでいない。



2012年1月4日水曜日

天皇づくしのお正月

1月某日

ふと気になって書斎の本棚から天皇本を3冊抜き出す。

ひとつは『入江相政日記 第一巻』(朝日文庫)。東大国文科卒で学習院大学の元国文科講師らしく、侍従として勤めたあと自宅で芥川龍之介全集を読んでいる記述がいくつかみられる。ほかにも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』なども出てくる。

二・二六事件から数日の日記も読んでみる。この部分は二回目くらいだが、こういう事態でも日記を欠かさずつけているのも感心であるし、意外に取り乱した様子もなく、事情も詳細には書いてはいない(まだ侍従になって1年ちょっとであるから下っ端なので宮中の中枢からは隔たっていた?)のが印象的である。なお、入江が侍従となったのは昭和9年10月、二・二六事件は昭和11年2月のこと。

つづけて河原敏明『昭和天皇とその時代』(文春文庫)を読む。すでに読了した本。昭和天皇と秩父宮の仲違いについてや、香淳皇后の骨折についてなど。香淳皇后は静養先でつまづいたときに腰骨を折ってしまったのであるが、入江らが早急の手術に躊躇したため、十分な治療をすることができなかった。ために、皇后は車椅子の生活を余儀なくされ、而して痴呆の症状が進行してしまったという。

最後に原武史『大正天皇』(朝日選書)を読む。もちろんすでに読んだものだが、なにぶん十年も前のことだからほとんど忘れている。ともかく、自由奔放で気さくな大正天皇の人柄を楽しむ。

原敬が自身の日記を公刊することを頑なに拒んだ理由として、日記に大正天皇の病状が詳しく書かれすぎていることをがあったのではないか、と原武史は推測する。原敬は数十年後はともかく今は・・・という云い方をしているので、絶対に公刊はだめだと云ったわけではない。原武史の推測はもっともなものかもしれない。あまりに露骨に記述されているのは事実だから。

といっても、昭和天皇が摂政に就任することを念頭に大正天皇の病状を新聞紙上で結構詳しく公にしたので、ちょっと疑問ではある。摂政就任を目前に、原敬は狙撃された。

ところで、先日読んだ『天皇の執事』(文春文庫)の著者・渡邉允の曾祖父は、宮内大臣をつとめたことがある渡邉千秋だが、辞任直前に収賄の疑いをかけらていたそうだ。逮捕されたかどうかは知らない。もっとも、渡邉允本人とは全く関係のない話ではある。

2012年1月1日日曜日

イギリス国王が刺青だなんて

1月某日

このあいだ買ったドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(講談社)を読んでみる。10ページほどだが、訳がちょっと下手。これは致命的かもしれない。

けれどレヴィ=ストロースの父が画家だったというのは面白い話。

このところ毎日読んでいるのは、高橋紘『人間 昭和天皇』(講談社)で、上巻の半分くらいまで進んだ。

だいたい知っている話なのですらすら読めるが、驚いたことがいくつかあって、たとえば東久邇宮稔彦親王がパリに遊学中、モネに絵を教わったことがあるという話。それ以上はなにも書かれていないが、俄然、稔彦親王に興味を覚える。伝記などを探してみよう。

もうひとつ驚いたのは、明治から大正にかけての時代、英国王室で刺青がはやっていたということ。

名君名高いジョージ五世(在位:1910-36年)をはじめ兄のアルバートら4人が刺青をしており、長男のエドワード八世(ウィンザー公)は日本を訪れたときに刺青を希望したが時間がなく叶わなかった、という。

ジョージ五世は1881年(16歳)に訪日したことがありそのときに彫ってもらったようだ。。ついでに云えば、先日完結した「坂の上の雲」にもたびたび登場したロシア皇帝ニコライ二世も、1891年の訪日時に刺青を入れたとか。大津事件が有名だが、そんな一面もあったのだ。ところ、彼らは刺青を後悔しなかったのだろうか?

ふと突然、何の脈絡もなく、福田恆存『私の国語教室』(文春文庫)を読み始めた。旧字旧かなの文章がとても居心地がいい。まだ30ページほど。