ラベル 天皇 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 天皇 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年2月18日火曜日

近現代の暗殺事件

暗殺

大村益次郎


大久保利通
明治11年5月14日、自宅近くの紀尾井坂で金沢士族島田一郎らに暗殺


伊藤博文


原 敬
1921年(大正10年)11月4日、東京駅構内で中岡艮一に暗殺。中岡は19歳、大塚駅の転轍手


犬養 毅
1932年(昭和7年)5月15日、「五・一五事件」で「艦隊派」の海軍軍人により暗殺。1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約により建造制限がもうけられたことが背景。条約締結に賛成したのは「条約派」という。

高橋是清
1936年(昭和11年)2月26日、「二・二六事件」で陸軍軍人により暗殺


團 琢磨
1932念(昭和7年)、血盟団の菱沼五郎に暗殺
團は三井三池炭鉱の経営に辣腕を揮い、三井財閥を率いた。


暗殺未遂



2012年3月3日土曜日

リアル天皇論-橋本明『平成皇室論』

12月某日

古本屋で手に入れたまま積読されていた橋本明『平成皇室論』(朝日新聞出版)を読む(といっても、読んだのは12月)。

平成皇室論 次の御代へむけて
平成皇室論 次の御代へむけて

本書の内容は、今上の皇太子時代から現在までの歩みを丹念に追った伝記という側面と、現今にあって天皇とはいかにあるべきかという現代天皇論という側面があり、その両面をうまくまとめて書かれている。ひとえに、著者の眼の良さ、つまり批評眼の確かさが本書の信頼性を担保しており、なかなか読み応えがある。

とくに印象的だったものを紹介すれば、戦後の皇室にあって「皇太子妃」「皇后」の立場の難しさについて詳しく書かれている。それはつまり、美智子皇后がいかに苦労してきたかということだ。

美智子皇后は入内以来、旧皇族・旧華族から猛烈な批判ないし苛めを受けた。平民出身がなぜ皇室に、しかも皇太子妃におさまるなんて・・・という人間特有の感覚=階級意識である。厳しい立場に置かれた美智子妃に手をさしのべることができるのは、皇太子しかいない。いや、絶対に認められなくてはならないというご自身の努力しか、それらの声を消すことはできなかった。その努力のすさまじさは、なまなかに表現できるものではないだろう。現在、誰にも皇后として受け入れられている結果がただ、それを示唆するだけだ。(それはもちろん、雅子妃のふがいなさを逆照射することになってしまうのだが。)

意外だったのは(よくよく考えれば意外でも何でもないのだが)、三島由紀夫が皇太子同妃時代の両陛下と直接歓談したことがあり、だがその後、三島は両殿下の批判を展開したのだという。皇室の神聖を信じる三島は週刊誌などで両殿下の姿が派手に紹介されることに苛立ちをみせた。昭和天皇の非人間性を尊び、両殿下の普通の人間性に不安を覚えたのだ。三島のみならず、その批判には村松剛や黛敏郎なども加わっていた。

両陛下は皇太子同妃の時代、保守派とされる人々からも批判を受けていたのだった。美智子妃と結婚した頃、皇太子を知る旧友たちから皇太子の頼りなさを心配する声があがっていたという話は聞いたことがある。皇太子が美智子妃にべた惚れだったからだ。

(つづく、かも)

2012年1月22日日曜日

高橋紘『人間 昭和天皇』上下巻1000ページをなんとか読んでみた

1月某日

高橋紘『人間 昭和天皇』(講談社)上下巻をようやく読了。




遺著として高く評価したいところではあるが、昭和天皇の伝記としては可もなく不可もなくといったところ。

元「記者」の限界なのかもしれないと思うのは、「その都度批評」の底が浅すぎたということ。つまり、基本的に時系列に沿って事象を紹介していくわけだが、その各事象についての分析が表面的で、さまざまな文献からさまざまな引用をすることが目立つばかりであり、腰を落ち着けてじっくり考えるという姿勢はほとんど見られなかったのである。悪く云えば、知識の羅列だ。

たとえば立憲君主制とは何か、元首とは何かの定義づけがないのに、これは立憲君主として逸脱だとか、戦後の昭和天皇は元首ではないとか語られても、(素人ならまだしも)多少知識のある人にとっては違和感ばかり覚えてしまう。

ひとつ例をだすと、訪米直前に組閣があったとき、担当大臣である外務大臣には留任してもらいたいと首相に云ってもよいかと昭和天皇が入江侍従長に相談するくだりがある。入江は当然、云ってはなりませんと答える。著者は「君主の意識が抜けきれない」と批判的にみているが、これは、昭和天皇にとって戦後の最大のイベントであったろう訪米の調整をしている最中にもかかわらず、あいもかわらず政争の影響で大臣がころころ替ってしまうことへの皮肉、いらだちではなかったか。昭和天皇自身の相手国への配慮ではなかったか。すなわち、本書はこれまで公刊されてきた幾多の昭和天皇伝の枠内におさまる程度のものでしかない。

昭和天皇についての本を初めて読もうとする人には、分量の多さと値段の高さはあるとしても、内容の平易さからは格好の本かもしれない。だが、その格好さゆえに、著者の客観性のない(立証的でない)先入観に安易にのせられてしまうかもしれない。私であれば、本書は人には勧められない。

平易、と書いたが、記者出身にしてはあまり文章はうまくない。主語が誰で相手が誰なのかよくわからない文章、引用の仕方が多すぎる。病床にあっては十分に校正ができなかったのかもしれないが、論理的でない文というのは伝記にはふさわしくない。

と、マイナス面ばかりを述べるのもアンフェアなので、本書で面白かったところをいくつか挙げたい。

まず、以前のエントリーにも書いたが、昭和天皇が皇太子時代、欧州を歴訪したときのエピソードで、当時のイギリス王室で刺青がはやっていたということ。国王のジョージ五世をはじめ4人が来日時に刺青をしており、ロシア皇帝ニコライ二世もまた、そうだったという。当時の欧州での刺青人気については、小山謄『日本の刺青と英国王室』(藤原書店)が詳しいらしい。





(つづく)

2012年1月4日水曜日

天皇づくしのお正月

1月某日

ふと気になって書斎の本棚から天皇本を3冊抜き出す。

ひとつは『入江相政日記 第一巻』(朝日文庫)。東大国文科卒で学習院大学の元国文科講師らしく、侍従として勤めたあと自宅で芥川龍之介全集を読んでいる記述がいくつかみられる。ほかにも、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』なども出てくる。

二・二六事件から数日の日記も読んでみる。この部分は二回目くらいだが、こういう事態でも日記を欠かさずつけているのも感心であるし、意外に取り乱した様子もなく、事情も詳細には書いてはいない(まだ侍従になって1年ちょっとであるから下っ端なので宮中の中枢からは隔たっていた?)のが印象的である。なお、入江が侍従となったのは昭和9年10月、二・二六事件は昭和11年2月のこと。

つづけて河原敏明『昭和天皇とその時代』(文春文庫)を読む。すでに読了した本。昭和天皇と秩父宮の仲違いについてや、香淳皇后の骨折についてなど。香淳皇后は静養先でつまづいたときに腰骨を折ってしまったのであるが、入江らが早急の手術に躊躇したため、十分な治療をすることができなかった。ために、皇后は車椅子の生活を余儀なくされ、而して痴呆の症状が進行してしまったという。

最後に原武史『大正天皇』(朝日選書)を読む。もちろんすでに読んだものだが、なにぶん十年も前のことだからほとんど忘れている。ともかく、自由奔放で気さくな大正天皇の人柄を楽しむ。

原敬が自身の日記を公刊することを頑なに拒んだ理由として、日記に大正天皇の病状が詳しく書かれすぎていることをがあったのではないか、と原武史は推測する。原敬は数十年後はともかく今は・・・という云い方をしているので、絶対に公刊はだめだと云ったわけではない。原武史の推測はもっともなものかもしれない。あまりに露骨に記述されているのは事実だから。

といっても、昭和天皇が摂政に就任することを念頭に大正天皇の病状を新聞紙上で結構詳しく公にしたので、ちょっと疑問ではある。摂政就任を目前に、原敬は狙撃された。

ところで、先日読んだ『天皇の執事』(文春文庫)の著者・渡邉允の曾祖父は、宮内大臣をつとめたことがある渡邉千秋だが、辞任直前に収賄の疑いをかけらていたそうだ。逮捕されたかどうかは知らない。もっとも、渡邉允本人とは全く関係のない話ではある。

2012年1月1日日曜日

イギリス国王が刺青だなんて

1月某日

このあいだ買ったドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(講談社)を読んでみる。10ページほどだが、訳がちょっと下手。これは致命的かもしれない。

けれどレヴィ=ストロースの父が画家だったというのは面白い話。

このところ毎日読んでいるのは、高橋紘『人間 昭和天皇』(講談社)で、上巻の半分くらいまで進んだ。

だいたい知っている話なのですらすら読めるが、驚いたことがいくつかあって、たとえば東久邇宮稔彦親王がパリに遊学中、モネに絵を教わったことがあるという話。それ以上はなにも書かれていないが、俄然、稔彦親王に興味を覚える。伝記などを探してみよう。

もうひとつ驚いたのは、明治から大正にかけての時代、英国王室で刺青がはやっていたということ。

名君名高いジョージ五世(在位:1910-36年)をはじめ兄のアルバートら4人が刺青をしており、長男のエドワード八世(ウィンザー公)は日本を訪れたときに刺青を希望したが時間がなく叶わなかった、という。

ジョージ五世は1881年(16歳)に訪日したことがありそのときに彫ってもらったようだ。。ついでに云えば、先日完結した「坂の上の雲」にもたびたび登場したロシア皇帝ニコライ二世も、1891年の訪日時に刺青を入れたとか。大津事件が有名だが、そんな一面もあったのだ。ところ、彼らは刺青を後悔しなかったのだろうか?

ふと突然、何の脈絡もなく、福田恆存の『私の国語教室』(文春文庫)を読み始めた。旧字旧かなの文章がとても居心地がいい。まだ30ページほど。

2011年12月31日土曜日

自国の歴史とは何なのだろう?

12月某日

例のブックファーストに寄って文芸書棚を眺めていると、またもや高そうな本が置いてある。

ドニ・ベルトレ『レヴィ=ストロース伝』(講談社)。

著者はもちろん知らない人だが、レヴィ=ストロースの伝記ということで興味をそそられ立ち読みしてみる。上下二段組の本格的なものだ。3,800円という値段にもはや躊躇することなく購入。

購入してから1週間が経つが、まだ1ページも読んでいない。

12月某日

『一個人』(KKベストセラーズ)という月刊誌が天皇特集を組んでいたので、この雑誌を初めて購入。

まだ半分くらいを読んだところ。内容は一般的な紹介にとどまるレベル。

歴代の天皇のなかから「10人の賢帝」として、推古天皇、天武天皇などを単独でとりあげている部分がおもしろかった。むかし勉強したものばかりでとても懐かしい。最新の研究成果も盛り込まれており、天皇と云うものに関心のあるいまだからこそ愉しめる部分も大きい(ところで、大海人皇子は教科書では「おおあまのおうじ」と習ったものだが、いまは「おおあまのみこ」と読むらしい。ちょっと寂しい)。

天皇を語るということ

ところで天皇本ないしは天皇に関する文章を読んでいていつも気になることがある。それは、天皇について書く筆者のほとんどが、おそるおそるペンを走らせていることだ。

おそれているのは天皇ではない。世間である。

世間に自分がどう見られるかをおそれているのだ。天皇を賛美しているのではないか、右翼ではないのかと疑いをかけられることを極度に避けようとしている。だから文の途中でつねにエクスキューズが入る。いわく、天皇はこのような行動をした、しかしそれは××××だったのだが、というような。

それが顕著なのは、古代の天皇を記述するときである。確実に云えることでない限り、天皇にまつわる逸話はすべて否定される。古事記・日本書紀に細かく書かれていないことはすべて嘘であり(たとえば初代神武天皇から第9代開化天皇までは架空の存在と断言さえされている)、かつての天皇による崇高な行為はたいてい誇張されているものとされる。どんな民族・国民でも自国の歴史さえ、客観的にみることはできていないのに。むしろ、すべてを証明できる事実に基づいて語ることなど、ありはしないのに。その消極性は何なのだろうか。

世間の目をおそれているからに違いない。すこしでも天皇をポジティヴに考えてしまうと、即「右翼」なのである。こんな状況は不幸でしかないだろう。天皇をマイナスにとらえる人たちは必ず、どこかで事実を無視した発言をしていることも見過ごすことはできない。つまり、天皇に関してのみ、事実だけを伝えなければならないと考える人が相当数いるわけなのだ。

たとえば、大化の改新は実はなかったのではないか、という疑問を書くのはとても健全であろう。だが、開花天皇以前は実在しなかったとまで云うのはどうなのだろう。記述という方法が確立されるまでの口伝の歴史はすべて虚構なのだろうか。

2011年12月17日土曜日

高橋紘の遺作『人間 昭和天皇』

12月某日

仕事帰りに愛用のブックファーストによって、あまり変わり映えのしない棚並びの中、奥に圧迫感を感じさせる本が二冊置いてあった。

高橋紘『人間 昭和天皇』上下巻(講談社)。

上下で1000ページという分厚さ。文庫本なら10冊はおさまるだろうというくらいのスペースにドカンと置かれていた。

最近、昭和天皇本が数多く出版されており、玉石混交といった感があるが、高橋紘の名はよく知っているし、何よりあとがき(立ち読み)が身につまされた。著者による力強くないあとがきによれば、ガンを患いながらの執筆だったという。そして、本文の推敲を終えたあと亡くなられた。編集部によれば、本書の完成をみる前に絶命されたようだ。

本書が遺著となったわけで、上下で6000円もしてしまうが最後の労力に敬意を表し、購入。おそらく誰も買わないだろうから、私が買わねば返品されてしまうところを救出。

共同通信社の記者をしていた経緯もあって直に昭和天皇の会見(非公式を含めた)に立ち会ったことのある高橋氏が本書で紹介する、会見での昭和天皇・香淳皇后の発言が、伝記という形をとりながらも随所にもりこまれているのが特徴である。屈託なく大笑いしながら語る昭和天皇が強く印象に残る。

(つづき)
24.1.1.「イギリス国王が刺青だなんて」
24.1.22.「高橋紘『人間 昭和天皇』上下巻1000ページをなんとか読んでみた」 



2011年12月14日水曜日

信頼し信頼されるべき存在としての天皇-侍従長渡邉允の回顧録

12月某日

渡邉允『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文春文庫)を読む。

著者渡邉允(まこと)は、曾祖父に明治天皇の最後の宮内大臣渡邉千秋、父に昭和天皇のご学友渡邉昭をもち、外務省官僚から宮内庁の式部官長を経て、今上の侍従長を十年半つとめた(現在も御用掛として今上と交流がある)。

本書は今上と長く間近に接した数少ない人物による皇室見聞録というべき本であり、同時に皇太子時代をふくめた今上の実像をあますことなく伝えている。今上が何を考え行動にうつしてきたか。つまり、平成という時代の皇室がどのようなものであるかが明らかにされており、本書は一種の平成論ともなっている。

天皇であるということ

今上の出発点といえるのは、昭和天皇の名代として戦後間もなくから開始された外国訪問であった。他国の元首を国賓として招いた場合、答礼として自国の元首が相手国を訪問するのが国際的な慣例である。だが、昭和天皇が(というより天皇一般が)即位中に外国を訪れることは当時、考えられないことであった。昭和天皇の天皇としての初外遊は昭和46年の欧州各国訪問まで待たねばならない。それまでの間、皇太子であった今上が昭和天皇の代わりに外国を訪問したのである。

昭和28年、エリザベス女王の戴冠式に皇太子であった今上は出席した。若干19歳の大学生であった。英国を含む欧州11ヶ国と米国をまわる6ヵ月にもわたる長い旅をへて帰国した皇太子の成長ぶりを、周囲は褒めそやした。以後、天皇の名代としての外国訪問はつづくわけだが、この昭和28年の旅こそ、今上が「天皇」とその重責を意識する最初の機会となったのではないか。今上自身、「相手国は天皇が答訪するものと考えているところを私が訪問するわけですから、自分自身を厳しく律する必要がありました」と後年の記者会見で述べている。

外国訪問でひとつ印象的で象徴的な話がある。平成9年のブラジル訪問の準備段階で、前回昭和53年に同国を訪れたときに時間の都合で会うことのできなかった日系人に会うことはできないかと今上が希望する。20年も前のことを記憶し、一度交わした約束をなんとか果たそうという意思は今上の人柄をよく表わしている。

信頼

平成の世と今上を結びつける最大のものは、信頼である。前述のブラジル訪問の話でもそうであるが、人々との信頼関係を今上は最も大事にしている。国民との触れ合いを大切なものとし、なかでも社会的弱者との交流は生涯のテーマとしているようにもみえる。力の弱い人々に寄り添うことは、そこに確かな意思の存在を感じさせ、人々の中に自然と敬愛の念を生むものである。

有名なのは、全国身体障害者スポーツ大会が創設されるきっかけは、今上の提案だったということだ。東京オリンピック閉幕直後のパラリンピック東京大会に感動を覚えた今上は、この大会は身障者の生きる希望を与えてくれる素晴らしいものだったとの言葉を関係者に伝え、翌年から日本独自に同スポーツ大会が毎年開催されることになった。
(つづく)

2011年11月9日水曜日

昭和の終わりと平成の始まり - 佐野眞一『昭和の終わりと黄昏ニッポン』

11月某日
佐野眞一『昭和の終わりと黄昏ニッポン』(文春文庫)を読む。

昭和天皇が崩御される前後の政界、社会の動きをあつかった前半と、昭和帝不在の平成時代に起きた時代的なできごとを取材した後半とにわかれる。

後半部分は正直にいって不要だった。

首都東京でも比較的貧しい地域で売春などが広まっているという傾向がみられ、いわゆる下層社会の実態を描く。一方で優れた医者が独自に病院を改革している事実が紹介される。そしてそれだけのことである。

前半の昭和の終わりの劇的なシーンとの不釣り合いが気になる。もっとも、平成という時代がそのようなもの、つまり、劇的なものがうまれない時代であるということかもしれない。

また、平成における昭和天皇の不在を語るにあたって「大きな物語」というキーワードが頻繁に登場するのだが、そもそも「大きな物語」がなんであるのか、これがない時代というのはどういうものであるか、平成にはいかなる物語がうまれようとしているのか・・・・このあたりの考察が弱すぎるのだ(ごくごく常識的な解釈しかあらわれてこない)。この程度の考察で終わるのだとすれば、「大きな物語」という言葉は持ち出す必要がなかったのではあるまいか。

本書のメインは昭和天皇の崩御にいたるドキュメント(とその影響=平成における)である。

陛下体調急変の報を受けて皇居にかけつける主治医・・・などの話は読んでいてリアルなのであるが、これも保阪正康が『昭和天皇』(中央公論)のなかですでに書いたものがほとんどであって特段目新しいものではない。それでも新しい情報が盛り込まれているし、そもそもこの時期の話は何度読んでも面白い。

ここからは佐野眞一のオリジナル?で、昭和帝の崩御に影響を受けた人物に、林郁夫と宮崎勤のふたりがいるという話が描かれる。

林はオウム真理教の信者として地下鉄にサリンを撒き実刑をうけ、宮崎は幼女を殺害したとして死刑となった。とくに慶応大医学部卒の有望な医者であった林は昭和天皇の一般参賀に何回か訪れ、同世代よりはずっと天皇への敬愛の意は強かい人物であった。宮崎も昭和天皇崩御を知らせる新聞をいつまでも自分の部屋に置いていたという(昭和天皇を祖父と同一視していたのではあるが)。

そこに昭和天皇が崩御し、「父」なる存在が消えてしまった。林は、新たな「父」をオウム真理教に求めていった(そう簡単には云えないと思うが)。宮崎については知らない。

もっとも、林の話は、これもすでに福田和也が『現代人は救われ得るか』(新潮社)のなかで書いていることではある。

それはともかく、佐野眞一は平成の時代を印象付けるこれらの事件と昭和天皇の崩御につながりをもとめていくのである。(しかし、この肝心な部分が弱い。佐野さんの他の本がそうであるように、もう一歩踏み込んだ(あるいは離れた)言説ができていないのである。せっかく題材は面白いのに。)

2011年9月12日月曜日

ミシェル・フーコー?まったくなんという・・・

9月某日

忙しくなって読む時間がすくなくなってきたが、目を通したものをざっと挙げる。

今日は、机の上の積読のなかから、花田清輝『恥部の思想』を抜き出して拾い読み。

1965年の単行本だから古い。「現代は資本主義から社会主義へと移行している過程にある」と書くくらいだから、いかにも古い。でも、花田清輝は初めて読むから新鮮だ。

「現代美術」というエッセイと、東京音頭についてのエッセイだけとりあえず読んだ。「恥部」を葉っぱであからさかまに隠す絵画について(画家の名は忘れた)と、当時東京中に鳴り響いた東京音頭の煩わしさについて。

東京音頭の作詞は西條八十。この名前はよく目にする。西條の本はたしか一冊持っていた気がする。坪内祐三の紹介で購入したはずだ。

花田は幕末から明治初期の「ええじゃないか」、昭和初期のナントカと、この東京音頭を比較していた。細かいことは忘れた。

小林秀雄『近代絵画』(新潮文庫)を読む。

ドラクロア、セザンヌのところまで。批評とはこういうものを云うのだというお手本のような文だ。ぐいぐい読ませる。

城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書)を読む。

まだ20ページくらい。天皇の政治的意味はまだまだ強い。

重田園江『ミシェル・フーコー』(ちくま新書)を読む。

いまはもっぱらこの本を集中的に。まえがきの男前な文から期待させる。しかし本文は若干まとまりを欠いた文章に見える。もっとすっきり書けたはず。でも、じっくり読めば至極論理的だ。ただ、寝ながら読む本ではないということだ。

ついてでにフーコーの『狂気の歴史』(新潮社)も開いてみる。

序文がおそるべきつまらなさ。前回は50ページくらいまで読んだが、今回は1ページで投げ出す。いつか読む日が来るのだろうか・・・。

2011年7月2日土曜日

いざ、昭和へ

6月某日

ポー「モルグ街の殺人」を読み終えて「失われた手紙」を半分ほど読む。

「モルグ街」は若干失望したけど、「手紙」はずいぶん面白そうだ。「推理する人間の知性を推理される人間の知性と同一化」することが犯罪推理の(もっといえば人の繊細な意識の)要諦である。それは言葉上で納得できる以上に真実だ。

自分の知性のレベルに対象を引き上げるのではなく、対象のレベルに自分の知性をなぞらせる。この場合、知性の高低は問われない。ただ、その意識があるかないかが大事なのだ。

相手の思考に自分の思考を沿わせるのはとても難しい。自分の既存知識や感情的な自意識が邪魔するためである。ポーの小説でこんなことを思わされるとは思っていなかった。予想外の収穫である。

6月某日

福田和也『昭和天皇 第二部』文春文庫を読了。つづけて『第三部』へ。

第二部は大正天皇の崩御まで。つまり、昭和天皇が天皇となるまでに二冊が要されたということになる。

即位までの歴史を読んでみて思うのは、明治時代のみならず、大正時代末までの日本もまた、幸福であったということだ。昭和の失敗を暗示するような出来事(例えばテロや政党政治の腐敗、天皇の政治利用など)が目立ち始めたとはいえ、それは後からそう云えるわけであって、国家としては大正時代を通じて盛隆しつづけていたと云えよう。存在感が増すにつれて他国との軋轢も生じやすくなるのは至極当然のことであって、軋轢を生んだのだから政治=外交は間違っていたのだと逆転させてはならない。

そして、先帝の崩御をうけて昭和がはじまるのだった。

2011年6月18日土曜日

興行師・神彰

6月某日

引き続き有吉玉晴『恋するフェルメール』を拾い読み・・・のつもりが、面白かったので100ページくらい読む。

フェルメールの作品がオランダで一挙に公開されるのにあわせて企画されたツアーに参加した話をエッセイ風に綴っているところ。無類のフェルメール好きが集まっているのだから、フェルメールにしか目がいかないツアー参加者たちの様子がなんとも面白い。

ときどき、唐突な感じで有吉玉晴の昔話がとびだしてくる。それがまた惹きこまれる内容で、しかもリアルな言葉を選んでいるから、読後感がよい。

そんなエピソードのなかで自分の父を語るくだりがあって、母=有吉佐和子とはずっと昔に離婚しているのだが、25年ぶりぐらいに交流をもつようになり・・・とあって、父はボリショイサーカスを日本に紹介し・・・という言葉に「あっ」と反応する。この人物は知っているかもしれない。名前は忘れていたけど、興行師として有名な人がいたことは覚えていた。父の名は神彰(じんあきら)という。そうか、有吉玉晴は有吉佐和子と神彰の子供なのか。

父・神彰との交流については、実はフェルメールのお話よりも貴重かもしれない。図書館で借りた本だけど、本屋で見つけたら購入しておこう。

6月某日

福田和也『昭和天皇 第一部』を読む。

雑誌連載中に読んでいたあたりだけど、単行本で読み返すことにした。まだ100ページくらいだが、一文一文を堪能するように読む。

この伝記の特徴は、明治から大正、昭和を彩る傑人物たちのエピソードが随時紹介されることだろう。とくに明治を創った第一世代の多士済々は現代日本からすれば羨ましすぎるラインナップだ。彼らにつづく第二世代、第三世代は、様々な紆余曲折をへて――ときに父の世代の栄光に気後れし、ときに父に匹敵する仕事をなして――昭和までの繁栄を築き上げた。「昭和までの」と云わざるを得ないのが辛いことではあるが。

2011年4月10日日曜日

天皇の料理番の「粋」

4月某日

渡辺誠『昭和天皇のお食事』文春文庫を読む。ついページを開いて読み始めたらとまらなくなって、最後まで読んだ。

宮内庁の大膳課で料理人をながくつとめ、昭和天皇、今上、皇太子の三世代にわたって皇室の料理に携わった著者の、宮中料理の紹介である。

皇室で作られる料理の厳しさは想像以上だった。けして贅沢な素材を使っているのではなく、その作り方があまりにも贅沢であると云える。すべて同じ大きさで切らなければならないため、野菜は真ん中の部分しか使用しない。すべて同じ食感が求められるため、同じ食感になるよう厚みをその都度変える・・・・・・など、技の贅沢である。そして、これが日本人の料理の真髄なのだなと思う。

本書は皇室の料理がメインなのであるが、著者・渡辺氏の人生も、もっと興味をそそられるものだ。食事にハイカラな家に生まれ、中高生時代には英語を習うために米軍基地でアルバイトをし、そこで出会った洋食文化に強い憧れを寄せ、家業の仕立て屋を継がず18歳で料理人の道を目指してプリンスホテルに就職。そこでひどいしごきやいじめにあいつつも誰よりも努力して一流の料理人になろうとして修行。縁あって宮内庁の大膳課に移籍してからの努力も目をみはるものがある。そしてそこで出会った先輩の料理人たちの素晴らしさ――。

ひとつ紹介すれば、師匠格にあたる中島伝次郎・副主膳長の「粋」がすばらしかった。

料理だけでなく遊びも一流だった中島伝次郎にお座敷に連れられた渡辺氏は、最後の会計の際、財布を渡され支払いをしに女将のところへ行った。だが。

「中島様の大切なお客様(渡辺氏ではない正式な客)ですから、勘定はうちがもちますので結構です」

と断られ、中島氏にその旨を伝えた。すると中島氏は通常の代金の倍くらいのお金を渡辺氏に預け、

「祝儀だといって渡してきな」

と再度女将のもとへ向かい、女将は今度はそのお金を受け取った、という。

こういうのを本物の「粋」というのだろうね。

2009年7月14日火曜日

日記や回想文はとてもおもしろい


7月某日

この間購入したふたつの日記をちょくちょく開いて読んでいるけども、戦前(戦中)の日記と聞いて何よりもまず読みたくなる日付というのが誰にでもあると思う(いや、ごく一部の人だけか?)。おそらく一番人気は敗戦の日だろうけど、自分がすぐさま開いたのが二・二六事件の日。

この日から数日の宮中ならびに政府内部の混乱はそれはもうひどいもので、秩序がまさしく崩壊しつつある雰囲気たっぷりなのである。そんな内部の赤裸々が面白くないわけがない。しかも当時、侍従を勤めていた入江相政の日記とあれば。

というわけで『入江相政日記』の1936年2月26日の項を読んでみた。と云いたいところだが、実はこの数日前の日記のほうが面白かったのである。面白いというか印象的だった。

二・二六事件の三日前の記述。この日、美濃部達吉が右翼の銃撃に遭うという事件があり、それを知った入江が事態をかなり憂慮していることが窺える。右翼人士を活気づかせるからである。事実、右翼を刺激しないよう事件は翌年まで公にされなかったという(解説)。

二日前の記述では、入江が小堀杏奴の「晩年の父」を読んだとある。このあたりが日記の面白さで、世情が不穏になっても個人の生活は普通に営まれているのである。杏奴は森鴎外の次女で、森茉莉の妹にあたる。

そういえば森茉莉のエッセイに杏奴のことが(何度も)書かれていて、例えば茉莉が東京女子高等師範学校附属小学校の5年生だか6年生の頃、別の小学校に通っていた杏奴が教師とともに突然、教室に現れた。杏奴が騒いで抑えきれないため、教師が姉の学校までわざわざ連れてきたというのだ。連れてこられた杏奴は、茉莉の席の隣にちょこなんと座る。そのとき、茉莉は「なんでこんな妹が生まれてしまったのだろう」と思ったという。

横道にそれたけど(英語で「横道にそれる」はwanderというのを今日知った)杏奴の「晩年の父」と二・二六事件が同時代であるということを体感させてくれるのも、日記の魅力なのである(つまり鴎外はとっくに死んでいるわけである)。


7月19日

買いそびれていた坪内祐三・福田和也対談集『無礼講』をようやく買って、ちょびちょび読んでいる。雑誌初出時に読み逃した回が結構あるため、初見のものが結構あるわけである。ある回で、坪内祐三が「自分が書いてきたものはすべて自伝か日記だ」と云っていた。たしかにそうかもしれない。というか、そうとしか考えられないかもしれない。そう、考えると、自分語りも違和感はないし、そういうスタイルなのである。でも『変死するアメリカ作家たち』の最終章だけは、やっぱり納得いかない。

まだ終わっていない本のひとつが内田魯庵『思い出す人々』で、ようやく3分の2を終えたところか。ますます面白い。この本はもっと早くに読むべきだった。奥付や記憶を参考にするとこれを購入したのは2001年頃だが、8年もほうっておいたことが悔やまれてならない。だって、これほどためになる明治文学案内があるだろうかという面白さなのだから。

学校の教科書に漱石とか鴎外とかの文章を載せても読みにくい、つまらないだけで、明治文学への関心を招き寄せることなんてもはやどだい不可能なのだから(自分だってそうだった)、魯庵のこのエッセイ(回想文)を代わりに読ませれば、アツイ明治の作家たちの生き生きとした姿を体験できて、よっぽど読者を獲得できるだろうに。教育関係者はもっと考えるべき。

2009年7月13日月曜日

貴重な日記を480円で購入した


7月10日

数年ぶりに古本屋「天牛書店」へ行く。ここは鉄筋二階建てに古本が所狭しと並べられている有数の古本屋。しかも値段も安いときている。文庫は50円から、単行本も100円から手に入る。いわゆるベストセラー本ばかりではなくそこそこ読める本が300円均一カートに置いてある。洋書も300円からあって、つい、読みもしないのに買った洋書は数十冊になるだろう。今回も9.11テロについてのアメリカ政府の正式な報告書なんぞも買ってしまった。きっと読むことはないだろう(後日、序文をちょっと読んだけど)。

で、今日の収穫はやはり『入江相政日記』と『高松宮日記』。昭和史第一級の資料がナント1冊480円から。

『入江日記』からひとつ取り上げると、入江は戦前のある日ある夜、辰野隆の長谷川如是閑論を読んだと書いてある。辰野はフランス文学者なのに、如是閑論を書いたことがあるわけですか。面白そうだ。

追記。そういえば、森茉莉が仏文和訳の仕事かなにかをしたとき、辰野隆にみてもらったとエッセイで書いていた。「夫だった人」(森茉莉の口癖)のつながりで、結構親しい間柄だったらしい。

7月11日

この前後数日、睡眠障害が悪化して何日に何を読んだかはっきりわからない。たぶんこの日は少なくともシャラーモフ『極北コルィマ物語』と内田魯庵『思い出す人々』を読んだ気がする。

短編集『コルィマ』で印象的だった短編をひとつ書いておくと、盲目の牧師とその妻と飼っている山羊の話(羊だったかも)。収容所には直接関係のない小説で、盲目となった牧師は山羊の世話を唯一の生きがいとして暮らしている。牧師は山羊の乳を売る収入で生活ができていると信じているが、山羊の餌代が高いため支出のほうが多く、本当は山羊を手放さないと生活ができないほどだった。妻はその事実を牧師に伝えることはできない。牧師は山羊の乳搾りをとても愉しみにしているからだ。

しかし、いつまでも隠すことはできない。家具や服など、売れるものはすべて売った。このことも妻は牧師に話していなかった。真実を知った牧師は、最後の財産である金の十字架を砕いて、妻に売るよう伝えるのだった。

7月12日

魯庵『思い出す人々』は二葉亭四迷の話が終わって、山田美妙の思い出話に入った。美妙の早すぎる晩年。若干20歳すぎで一流作家となった美妙は、それをピークに(早すぎるピークだ)峠を転がり落ちていく。それは、美妙の交際嫌いの性格と進歩する努力のなさが原因だった。その点、尾崎紅葉は真面目だった。作家たちとの付き合いを大事にし、新旧問わず、どんどん本を読んで、新しい知識を増やしていった。そうして紅葉は文壇の大御所となり、現代にまで名を残す文豪となったのである。

2009年7月7日火曜日

君主は大変なのであーる


7月6日

この間読んだ山本七平『昭和天皇の研究』について補足しておくと、本書のハイライトである津田左右吉の「自然のなりゆき」という言葉が天皇(もしくは君主一般)についての困難性を解説してくれるだろう。

戦前、軍部や官僚たちは自分たちの意を天皇の意だと国民に偽装し、その結果として国民は玉砕という強迫観念から逃れられない精神状況に陥ってしまった。その挙句の敗戦について、国民はふたつの感想を抱いた。ひとつは、肉親の死に対して、または自分たちの苦痛に対してすべては天皇陛下のため、国家国民のためだったと納得させた感情。もうひとつは、こんな酷い目に遭わせた戦争を統帥した天皇に恨みを抱く感情。

この後者の気持ちは「自然のなりゆき」と云えると津田は書いた。被害者が責任者を問うのは当然のことである。この意味で、軍部や官僚こそが最も反天皇的な行為をはたらき、天皇に責任をなすりつけた張本人である。しかしだからと云って、彼らに真実を、天皇の意志とはつまり軍部や官僚の意志でしかなかったことを告げればいいわけではない。それは前者の敬虔なる感情を侮辱してしまうことにもなるからである。愚鈍な官僚たちのせいで息子を亡くしたと思いたくはないのだ。

したがって、軍部や官僚たちは、二重の意味で天皇を裏切った。(前者に対する)倫理的責任と(後者に対する)政治的責任を天皇に帰せたという裏切りである。いや、もうひとつ、重い裏切りをしてしまっている。それは、天皇に戦争は本意ではなかったとの自分自身の真意を伝えられなくするという恐るべき裏切りである。そしてここに、近代における立憲君主制の困難性があるのである(書く気になったら続きを書きます)。

2009年7月1日水曜日

山本七平をひさしぶりに読んだ


6月30日

山本七平『昭和天皇の研究』を読了。昭和天皇が自分自身をどのように「自己規定」していたかをテーマにした本。内容は充実。とくに、杉浦重剛や津田左右吉の話が詳しく、勉強になった。

本書にあるように昭和天皇自身は自分を「立憲君主」として厳格にすぎるほど律していたのは事実で、これは近代国家としては理想的ながら、反面数々の不幸をもたらしたのも哀しい現実である。昭和天皇は「立憲君主」という立場の困難さを歴史をもって明らかにしたと云える。

この天皇の「自己規定」を培ったのが杉浦重剛らの教師たちであった。つまり、彼らもまた、近代国家の理想を実現しようとした。彼らはすぐれて近代主義者であった。それが昭和10年代の悲劇を結果としてでも招いてしまったとしたら、それは昭和天皇や杉浦らに責めがあるのではなく、近代立憲君主国家それ自体の限界であるように思うのである。

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』 2

第2章は「ハリー・クロスビー」。1898年生まれの詩人で、いわゆる「失われた世代」のひとり。そもそも「失われた世代」というのは俗にいう第一次大戦によって青春が失われたという意味ではなく、近代工業化によって地方の伝統や地域性を奪われて育った世代のことを意味する。故郷を失われた世代であるのだ。

そんな世代のひとりで類まれな知性に溢れたクロスビーは、ヨーロッパ風の近代化を表面的に取り入れ続けているアメリカという現実に我慢がならなかった。リアルでないもののように思えた。このリアルを求めて、クロスビーは入隊する。しかし、戦場で彼が目にしたのは、死、つまりリアルなものなどこの世になにもないという「死のリアリズム」であった。

除隊したあと、ハーバード大学の学生から殊勝にも銀行員となりパリで勤務はじめたクロスビーは、放蕩と文学の生活に溺れる。あらゆる本を読破していくなかで最も好んで読んだのはランボーとジョイスだった。彼は詩人を目指す。銀行を辞めて自ら出版社を起こしたのも、自分の文学のためであった。自分の作品を出版し、文学者たちと語らうための場であった。

クロスビーはいつしか太陽に魅せられるようになる。「死のリアリズム」を克服するのは、本当の不滅、すなわち太陽であった。死をことごとく永遠化させることができるのは太陽だ、という考えに囚われていった。そうしてクロスビーは、自らをひとつの作品として自殺をしてしまった。時間という圧政から自由になるために、不滅を得るために。

2009年4月28日火曜日

皇室の陽と闇、あるいは表と裏


4月27日

山本雅人『天皇陛下の全仕事』を読了。イデオロギーや感情から逃れられた稀有な皇室ルポルタージュ。テレビに映る姿だけが天皇の実存ではないことを、非常に事細かに、網羅的に解説する本書は、天皇皇后の日々の生活のありようから一年二年というスパンで考えられる各行事、そして平成時代を迎えて戦後日本という枠組みから求められる仕事を両陛下が粛々とこなされる姿を、少し離れたところで観察しているかのような実感を得られる。