2011年12月14日水曜日

信頼し信頼されるべき存在としての天皇-侍従長渡邉允の回顧録

12月某日

渡邉允『天皇家の執事 侍従長の十年半』(文春文庫)を読む。

著者渡邉允(まこと)は、曾祖父に明治天皇の最後の宮内大臣渡邉千秋、父に昭和天皇のご学友渡邉昭をもち、外務省官僚から宮内庁の式部官長を経て、今上の侍従長を十年半つとめた(現在も御用掛として今上と交流がある)。

本書は今上と長く間近に接した数少ない人物による皇室見聞録というべき本であり、同時に皇太子時代をふくめた今上の実像をあますことなく伝えている。今上が何を考え行動にうつしてきたか。つまり、平成という時代の皇室がどのようなものであるかが明らかにされており、本書は一種の平成論ともなっている。

天皇であるということ

今上の出発点といえるのは、昭和天皇の名代として戦後間もなくから開始された外国訪問であった。他国の元首を国賓として招いた場合、答礼として自国の元首が相手国を訪問するのが国際的な慣例である。だが、昭和天皇が(というより天皇一般が)即位中に外国を訪れることは当時、考えられないことであった。昭和天皇の天皇としての初外遊は昭和46年の欧州各国訪問まで待たねばならない。それまでの間、皇太子であった今上が昭和天皇の代わりに外国を訪問したのである。

昭和28年、エリザベス女王の戴冠式に皇太子であった今上は出席した。若干19歳の大学生であった。英国を含む欧州11ヶ国と米国をまわる6ヵ月にもわたる長い旅をへて帰国した皇太子の成長ぶりを、周囲は褒めそやした。以後、天皇の名代としての外国訪問はつづくわけだが、この昭和28年の旅こそ、今上が「天皇」とその重責を意識する最初の機会となったのではないか。今上自身、「相手国は天皇が答訪するものと考えているところを私が訪問するわけですから、自分自身を厳しく律する必要がありました」と後年の記者会見で述べている。

外国訪問でひとつ印象的で象徴的な話がある。平成9年のブラジル訪問の準備段階で、前回昭和53年に同国を訪れたときに時間の都合で会うことのできなかった日系人に会うことはできないかと今上が希望する。20年も前のことを記憶し、一度交わした約束をなんとか果たそうという意思は今上の人柄をよく表わしている。

信頼

平成の世と今上を結びつける最大のものは、信頼である。前述のブラジル訪問の話でもそうであるが、人々との信頼関係を今上は最も大事にしている。国民との触れ合いを大切なものとし、なかでも社会的弱者との交流は生涯のテーマとしているようにもみえる。力の弱い人々に寄り添うことは、そこに確かな意思の存在を感じさせ、人々の中に自然と敬愛の念を生むものである。

有名なのは、全国身体障害者スポーツ大会が創設されるきっかけは、今上の提案だったということだ。東京オリンピック閉幕直後のパラリンピック東京大会に感動を覚えた今上は、この大会は身障者の生きる希望を与えてくれる素晴らしいものだったとの言葉を関係者に伝え、翌年から日本独自に同スポーツ大会が毎年開催されることになった。
(つづく)

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