2014年11月9日日曜日

カバネルの曖昧な「裸」-オルセー美術館展|国立新美術館

9月某日

巡回展がないため仕方なく東京まで出かけて国立新美術館の「オルセー美術館展」へ。

公式サイト : オルセー美術館展
会期     : 2014.7.9.-10.20.
場所     : 国立新美術館

ちょうど、東京都交響楽団がサントリーホールでブラームス交響曲4番を演奏する日と合わせることができたため(むしろコンサートに合わせて)、かなりお得な小旅行となった。

絵画の「裸」

事前に展示されると知らなかったため会場で遭遇してもっとも驚いたのは、カバネルの「ヴィーナスの誕生」。こんな「大物」が来ていたとは……。

ところで、裸のヴィーナスを描いて有名なのはボッティチェッリティツィアーノの作品。

ボッティチェッリ / ヴィーナスの誕生 1485-86年 テンペラ ※展示なし

 ティツィアーノ / ウルビーノのヴィーナス 1538年 油彩 ※展示なし

ボッティチェッリからティツィアーノへは、同じ神話画であっても、官能性の有無が明確である。ティツィアーノは、ヴィーナスの周囲を(当時の)わたしたちの日常とさほど変わらない事物で飾った。それゆえ神話性は薄れ、官能性が際立つ。

 カバネル / ヴィーナスの誕生 1863年 油彩 ※展示なし

しかし、それから300年後のカバネルはヴィーナスを神話の世界に引き戻す。当時の仏アカデミズムのルールにのっとった手法だった。(上の2人はイタリア。)

初期ルネサンスの中心人物に位置づけられるボッティチェッリが神話を神話として描くのはごく普通のことである。ルネサンスはそもそも古代ギリシャ・ローマの芸術復興を志向したものなのだから。盛期ルネサンスを生きたティツィアーノがヴィーナスを神話から現実へ引き摺り出したことは、当時としては挑発的な行為だったろう。

だが、産業革命が社会を激変させていた19世紀の只中にあって、神話に忠実に従ったカバネルは(特に今から見れば)滑稽である。皇帝ナポレオン三世がカバネル「ヴィーナスの誕生」を買い上げたように、芸術と現実社会との乖離は最大の臨界点に達していた。それを一気に崩しにかかったのが、カバネルと同年に制作されたマネの「オランピア」であるのは周知のところ。

 マネ / オランピア 1863年 油彩 ※展示なし

「オランピア」は発表時には酷評されたが、いまでは画期的な作品として一般に認められている。現実をあるがままを描いたとして。

カバネルのリアルな「裸」は明らかに当時の娼婦を想起させた。だがカバネルは娼婦を娼婦として描けなかった。(高橋達史はこれを「アカデミック・ポルノ」と呼ぶ。)彼に娼婦を描こうという意思はなかっただろうが、「ヴィーナスの誕生」はあまりにリアルな描写であるため、娼婦のヴィーナスでしかない。裸を描けば当時の社会の現実からは娼婦としか見えなかったのである。カバネル自身にも、人々のそのような欲求(官能的な)を満足させる目的があったはずだ。

ボッティチェッリからマネの“ヴィーナス”を並べてみると、カバネルの中途半端さがよくわかる。神話なのか現実なのか、芸術なのか世俗なのか、曖昧な彼の「裸」。


(たぶん、続く)