2011年9月26日月曜日

展覧会解説講座「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展の見どころ」に行ってみる

9月某日

一週間前に行ったばかりなのに、ふたたび京都はワシントン・ナショナル・ギャラリー展へ。

今回の目的は、学芸員による解説講座に参加するためである。

◇展覧会解説講座

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展の見どころ」

  講師:後藤結美子(京都市美術館学芸員)

  日時:9月24日(土) 14:00~15:00

美術館ビギナーだからこのような講座を聴くのは初めてでとても楽しみにしていて、講師はよくあるような大学教授ではなく美術館所属の学芸員(キュレーター)の人というのも興味をそそられたのであった。

京都市美術館に到着したのは午後1時前。定員が100名しかなく、整理券が配られるのが開始から1時間前の午後1時からだったからギリギリで大丈夫かなと心配していたが、整理券配布の列に並んだときは50番目くらいで、無事手にすることができた。

始まるまでの時間を利用して先に館内へ入る。ちなみに、隣のフェルメール展は入場50分待ちだ。とても観る気がしない。

こちらは入場待ちはなかったけど、先週とうってかわって結構混雑している。時間帯が前回は終了間際、今回はお昼どきだったかもしれないが、観たいものはだいた決まっているから真っ先にそれらの絵に向かう。マネの「鉄道」とカサットの「青いひじ掛け椅子の少女」、そしてベルト・モリゾ、である。

すいているところから順に(実は美術館ではこれが大事)これらの絵を中心として前半部分をほぼ観終えたところでもう一時間がたってしまう。全然時間が足りない。慌てて講座へ向かおうといったん外にでてから別棟の講演室に行く。整理券を受け取るまでてっきり本館の別の階で行なわれるのかと思っていたが、なんだか古い別の建物の中で行なわれるようだ。

講演室に入って席につき、メモをとる気十分でノートを開いたが、スクリーンにスライドを写すため部屋は真っ暗になってしまう。残念・・・。

さて、講師は同館学芸員の後藤結美子さん。

1999年にも同じ京都市美術館で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」(以下NGA展)を担当されたらしく12年を経てふたたび開催されることに感慨深いです、と云う。1999年にも展覧会に行ったことのある人の挙手をもとめたら、10人以上(もっと?)の人の手が挙がり、心から羨ましく思う。(10年前なら十分行けた年齢だ。美術を知らないというのはとても悲しい。)

ポスターについてこぼれ話をしてくれた。東京展のほうはマネの「鉄道」がポスターに採用されたが、京都展のほうは違ってゴッホの「自画像」が使用されている。これは、東京では「鉄道」のほうが人気があり人が入りやすいからで、一方関西ではゴッホのほうが断然人気があるからだという。東京に戻りたいと思わずにいられないが、フェルメール展がそうであるように関西でも同じものが開催されるのだから最近少し気に入っている。(でも「鉄道」のポスターが欲しい。)

NATIONAL GALLERY OF ART, WASHINGTON について

本題はまず「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の紹介から。正式名称は「NATIONAL GALLERY OF ART, WASHINGTON」(NGA)で、「NATIONAL」とつくから「国立美術館」と訳せばいいものをなぜカタカナで表記するのだろうか。それはこの「NATIONAL」が「国立」というより「国民のための」の意味合いが強いためで、設立の由来が一民間人の発意によるものであることが大きい。(このあたりはカタログに詳しい。)

NGAは、運営経費は一応国が出しているものの、美術品の購入費や展覧会の開催費などはすべて民間人の寄付によってまかなわれている。しかも美術品は寄贈によっても相当数集められた(むしろこちらが大多数?)。寄付金による購入と寄贈であれだけの作品数(約12万点!)が集まるのだから、まさしく「国民による」「国民のための」美術館であるといっていいだろう。そういう姿勢は日本でも見られればいいのだが・・・。(なお、この文を書くにあたっては『芸術新潮』2011年6月号も参照している。以下同じ。)

美術館の公式サイトも充実していて、所蔵作品それぞれに写真が添えられ注釈もついており、便利なことに今現在展示されているかどうかも確認できる。この作業はばかにならないはずで、豊富な資金と濃やかなサービス精神がある証拠である。ぜひとも実際に行ってみたい美術館だ。

NGAの説明がなされたあと、いよいよ本題。今回の章立てにそってそれぞれの画家・作品についての解説が行なわれた。

その中からいくつかの面白いお話を紹介。

コロー / うなぎを獲る人々

     コロー / うなぎを獲る人々

この絵は中央の木で左右に分けてみることができる。左半分は4人の家族?を中心とした絵であり、右半分は川とそれを取り囲む木々の絵。とくに右側は奥の光源に向かって伸びる川(水面に木が映る様子)が美しく、見事な奥行きを表現している。これは云われてみて初めて気づいた点だった。

ちなみにタイトルの「うなぎを獲る人々」というのはコロー本人がつけたものではなく、川の中にいる人の姿がうなぎを獲っているように見えるから、そう呼ばれるようになったらしい。不可思議な由来である。フランスでもうなぎを食べる習慣があるが、その料理はうなぎをブツ切りにするとても大胆なものとか。

マネ / オペラ座の仮面舞踏会

     マネ / オペラ座の仮面舞踏会

当時の仮面舞踏会はいわゆるブルジョア紳士と娼婦の出会いの場所であった。猥雑な空間であるが、マネ本人も(取材なのかどうか知らないが)参加したことがあったという。

しかし絵の人物たちのなかで「仮面」(マスク)をつけている人は少ない。左下の床に落ちている黒いものはマスクだという。中央の派手な服を着た娼婦もマスクをしておらず、積極的に男にアピールしている。仮面舞踏会の「仮面」は建前にすぎなくなっていたということだろうか。

教えられないと気づかないが、右から二人目の男性がマネ本人だ。そして右下の床にある白い紙はダンスカードと呼ばれるもので、ここにマネの名前が書かれている。登場人物の一人の署名であり、絵自体の署名でもあるという心憎い?アイデアだろう。

エドゥアール・マネ / 鉄道

     エドゥアール・マネ / 鉄道

この絵がNGA展の本当の主役であると個人的(筆者的)には思う。本物の素晴らしさはぜひ美術館で自分の目で確かめていただきたい。

さてこの絵には、鉄道自体がまったく描かれていないのに「鉄道」というタイトルがマネ本人によって付されている。煙がもくもくとたっているが、この煙のせいで列車の姿は見えず線路らしきものも判別できない。ではなぜ「鉄道」というのだろう・・・。

このあたりの推理というか解釈については、私(筆者)は関心がもてない。それほど「鉄道」という名前に意味があると思えないのである(もちろん、探ろうと思えばいくらでも見つけられるだろう)。それよりも、(この絵に限っては特に)純粋に絵の美しさを楽しみたいと思うのだ。その上で、想像力を少し足して、この絵の楽しみ方を加えてみたい。

まずこのふたりの関係である。普通に考えれば、母と子なのだろう。母は本を読み、娘は(相手をしてくれない母から離れて)列車が通るのを見ている。少し淋しいと云えば淋しい場面かもしれない(いや単に子どもが鉄道を見るのに飽きるのを母親が待っているだけかもしれない)。しかし・・・。

服の色が対照的なのも後藤さんの指摘で初めて気づいた。女性のほうは青をベースに裏地が白の洋服を着ているが、子どもは白のドレスに青い大きなリボンがついている。基調が正反対なのである。ここにも母と子?の行き違いがみてとれるわけである。

ところでこの女性のモデルについては面白い話があり、あのマネのもうひとつの代表作「オランピア/Olympia」のモデルと同一人物なのであった。これを聞いたとき、ええっ!と、めちゃくちゃ驚いた(有名な話らしい・・・)。「オランピア」は美術本でよく見る絵で、女性のヌードを描いた問題作である。

     エドゥアール・マネ / オランピア
          所蔵:オルセー美術館

高階秀爾『誰も知らない「名画の見方」』(小学館101ビジュアル新書)によれば、それまで西洋で描かれてきた裸婦像は神話上の女神がモデルであったが、マネは実在する女性の裸体を描いた。発表当時、「恥知らず」との批判に散々さらされたという。「オランピア」のもうひとつの特徴として、従来のように肉感を陰影で表現するのではなく、輪郭線を強調し平面的に描かれている。これは日本の浮世絵の影響だった。

そんな話を読んでいたのでこの絵はよく知っていたのだが、「オランピア」と「鉄道」の女性が同じ人だったとは・・・。

彼女の名前はヴィクトリーヌ・ムーラン。面白いのは、ムーラン自身が後に画家になったということだ。彼女の作品のうち現存するものはごくわずからしいが、そういった現実の物語はとても魅力的である。

これだけではない。NGA展に飾られている絵にエヴァ・ゴンザレスの「家庭教師と子ども」というのがある。

     エヴァ・ゴンザレス / 家庭教師と子ども

「鉄道」と、構図がとても似ている(もっとも、知らずに最初に見たときは全く気づかなかった・・・)。こちらに向いている女性と後ろ姿の子ども。しかも子どもは同じように「柵」を手でつかんでいる。服の基調の明るさは逆ではあるし、女性と子どもの立ち位置も反対なのだが、ふたつの絵に何らかの関係を見出してもおかしくはないだろう。画風も近いものがある。

     エドゥアール・マネ / 鉄道 ※再掲

実はエヴァ・ゴンザレスはマネの弟子なのである。それも、マネ公認の唯一の弟子であるという(マネの絵のモデルもつとめた)。一般には、「家庭教師と子ども」は「鉄道」に捧げられたオマージュとして解釈されている。

この絵のタイトルが「家庭教師と子ども」であることに注目すると、マネの「鉄道」のふたりの関係は母と子ではなく、家庭教師と子どもなのではないか――この一連の話を聞いたときは身体がゾクッとしてしまった。マネとゴンザレスの実際の関係から「絵」の物語が積み上がっていく面白さが、ここにはある。

個人的な感想を述べれば、「鉄道」の女性の瞳の大きさに注目したい。おそらく実際の瞳よりも大きく描かれているに違いない。そして女性の着ている洋服のボタンも、ふつうのボタンに比べてずいぶん大きい。ここがフォーカスポイントとなって(大きな瞳はかわいらしさを象徴する)、「鉄道」の絵の魅力と人気につながっているのではないかと思うのだ。

アルフレッド・シスレー / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り

 アルフレッド・シスレー / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り

1872年、シスレーは友人のモネをアルジャントゥイユに訪ねた。前年からモネがこの地に移り住んでいたからである。

人物画ではなく風景画を好むという点でふたりは共通の関心をもっていた。実は、シスレーのこの絵と同じ時に同じ場所で、つまりキャンバスを並べて描かれた作品がモネにあるのである。

     クロード・モネ / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り
          所蔵:Yale University Art Gallery

同じ構図で別の画家が、まったく同じときに描いた絵というのは珍しいだろう。そのため、ふたりの画風の比較が容易にできる。

まず明るさが全く違う(画像だから多少、実物とは色合いが異なるが)。シスレーの単色に近い情景に対し、モネは季節を感じさせるカラフルさである。また、小さな画像ではわかりにくいが、拡大してみるとシスレーのほうがずっと細かく描かれている。モネはおおざっぱだ。

個人的に面白く思うのは、シスレーは控えめに道の端っこ、他人の邪魔にならない位置にキャンバスを構えているのに、モネは道のど真ん中ということ。性格の違いなのか、知名度の違いなのか、はたまた本当は別のところで(大部分を)描いたのか知る由もないけれど。

セザンヌ / 赤いチョッキの少年

(セザンヌには「赤いチョッキの少年」という作品が4枚あるというお話を書く予定)


フィンセント・ファン・ゴッホ / 薔薇

最後にゴッホ。

ゴッホは個人的にはあまり関心がないため、絵の前に集まる人の頭越しに数分眺めただけだった。この絵の「秘密」には当然、気づきもしなかった。

     フィンセント・ファン・ゴッホ / 薔薇

中央のバラのいくつかをよく見てみると、白の花びらのところどころに赤味がある。実は、ゴッホの描いたバラはすべてが白色であったのではなく、その半分くらいが赤(紫?)だったという。

この絵にゴッホの使った赤の絵具は退色の進度がはやく、NGAにやってきたころにはすでに赤の面影はなくなり、すべて白のバラの花になっていたのだった。この白のバラのなかに赤のバラがあったとすれば・・・絵の印象は大きく違ってくる。もっと原色豊かな、派手な絵になっていたことだろう。

私にはこの白いバラのほうが素敵に思えるのではあるが。

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