2011年4月12日火曜日

『城』を読むトーマス・マン

4月某日

紀伊国屋書店のレジに近づいたら、『scripta』という冊子が置いてあるのに気づいた。よくある書店発行の無料誌のようだ。この冊子が発行されているのははじめて知った。

とりあえずもらって目次を見ると、池内紀トーマス・マン日記を読むエッセイが連載されていたので早速帰りに読み始めた。

イギリスに滞在していた、1940年頃のトーマス・マンの日記が引用されていて、ドイツの侵攻の様子が刻々と記録されている。でも――いちばん興味がひかれるのは、カフカ『城』をトーマス・マンが読むくだり。

当時まだ無名だったカフカ(とっくに死去)の『城』のアメリカ版を出すにあたり、出版社がトーマス・マンに序文を書くよう依頼してきたという。そこで、就寝前に『城』を読んだことが日記に書いてあるのだ。1940年6月某日。

結局、トーマス・マンは序文を書くことに決めた。面白かったからだろうか。そして、これをきっかけにカフカが知られるようになっていくのだろうか。

ゾクッとする話だ。

2011年4月10日日曜日

天皇の料理番の「粋」

4月某日

渡辺誠『昭和天皇のお食事』文春文庫を読む。ついページを開いて読み始めたらとまらなくなって、最後まで読んだ。

宮内庁の大膳課で料理人をながくつとめ、昭和天皇、今上、皇太子の三世代にわたって皇室の料理に携わった著者の、宮中料理の紹介である。

皇室で作られる料理の厳しさは想像以上だった。けして贅沢な素材を使っているのではなく、その作り方があまりにも贅沢であると云える。すべて同じ大きさで切らなければならないため、野菜は真ん中の部分しか使用しない。すべて同じ食感が求められるため、同じ食感になるよう厚みをその都度変える・・・・・・など、技の贅沢である。そして、これが日本人の料理の真髄なのだなと思う。

本書は皇室の料理がメインなのであるが、著者・渡辺氏の人生も、もっと興味をそそられるものだ。食事にハイカラな家に生まれ、中高生時代には英語を習うために米軍基地でアルバイトをし、そこで出会った洋食文化に強い憧れを寄せ、家業の仕立て屋を継がず18歳で料理人の道を目指してプリンスホテルに就職。そこでひどいしごきやいじめにあいつつも誰よりも努力して一流の料理人になろうとして修行。縁あって宮内庁の大膳課に移籍してからの努力も目をみはるものがある。そしてそこで出会った先輩の料理人たちの素晴らしさ――。

ひとつ紹介すれば、師匠格にあたる中島伝次郎・副主膳長の「粋」がすばらしかった。

料理だけでなく遊びも一流だった中島伝次郎にお座敷に連れられた渡辺氏は、最後の会計の際、財布を渡され支払いをしに女将のところへ行った。だが。

「中島様の大切なお客様(渡辺氏ではない正式な客)ですから、勘定はうちがもちますので結構です」

と断られ、中島氏にその旨を伝えた。すると中島氏は通常の代金の倍くらいのお金を渡辺氏に預け、

「祝儀だといって渡してきな」

と再度女将のもとへ向かい、女将は今度はそのお金を受け取った、という。

こういうのを本物の「粋」というのだろうね。

世間の「風潮」に抗えた唯一の政治家、斉藤隆夫

4月某日

月に15回くらいは本屋に通ってその度に1冊は本を買って帰る。けれどその日はめぼしいものがなく、それでも1冊も買わずに本屋をでるのはどこか後ろめたさもあり、ふだんはあまり注目しない特設コーナーを見ていたら、復刊された中公文庫が並んでいた。その中に、斉藤隆夫の名前があったので、思わず手が伸びる。斉藤隆夫『回顧七十年』である。こんな貴重な本を買わずにはいられない。早速購入する。で、少し読み始めた。

個人的には、斉藤隆夫は日本近代が生んだひとつの成果だと考えている。組織や風潮に惑わされず、政治学の要諦をおさえながら自分の信念を勇敢に主張できた数少ない日本の政治家のひとりである。

有名な昭和11年の粛軍演説、昭和15年の反軍演説は、日本の左翼が陥りがちな現実性のない批判ではなく、日本の現状を的確に捉え、正確な国際情勢分析に基づき、優れた批判的精神の表れと云えるだろう。立憲主義を理解した稀な日本人でもある。

抜本的改革や革新が叫ばれた当時にあって、そんな必要はないのであり冷静に現状の改善を進めればよいと主張できた政治家は他にひとりもいなかった。現代の政治家に彼のような演説はできはしない。なぜなら、誰もが「風潮」に踊らされているからである。

2011年4月7日木曜日

ヤクザルポを書くとしたら・・・

4月某日

鈴木智彦『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(文春新書)を読む。

書店の書棚でこの本を見つけたときは、あっと思った。文芸春秋が暴力団ライターの本を出せるのだという驚きからである。しかも知らない著者だ。軽いヤクザ情報フリークの私としては最新ヤクザ情報を読みたい気持ちを抑えられないので、少し立ち読みしてみて購入を決めた。すこぶる面白そうだったからだ。

事実、とても面白かった。興味をまずそそられるのは、著者が完全なフリーライターではなく、暴力団専門雑誌の編集者を経験していて、その内幕がおしげもなく披露されていること。読者投稿のヤクザ体験記がほとんど編集者の創作であること、入社2週間で編集長を任せられた、などなど体面を重視するこの社会にあっては貴重な証言である。

著者がヤクザ雑誌の編集者となったのは、最後に本人が漏らすようにヤクザへの好奇心からだ。たしかに、ヤクザ社会には好奇心のそそられるものがとても多い。任侠と暴力・威嚇という、本来は結びついてはならないものが分かち難く共存するがゆえに、武勇伝の裏には影響力拡大の思惑が潜み、暴力の影にはそれに依存せざるをえない弱者がいることも事実なのだ。それは日本の表の社会が抱える同じ構図に他ならない。いや、「表」の社会そのものが「裏」の顔をもっていると云ったほうが正しい。むしろ、「表」「裏」などないのだ。そんなことを思わされる本であった。

もっとも、本書はピリピリした現場(博奕のルポ、抗争事件の取材など)がメインというよりも、ヤクザとライターが繰り広げる人間劇が描かれているといったほうが適切だろう。けしてメインストリームにはでてこない、もうひとつの社会の実相である。

ひとつ苦情を云えば、文章がそれほど読みやすいものではないということ。主語と目的語が省略されることが多すぎて、誰が誰にどうしたのかがわからなくなることが多かった。ここは編集部の責任だろう。もっとも、大学教授なのに文の流れをうまく表現できていない某書(昭和時代を扱った最近出版の講談社現代新書)に比べればはるかにましだが。

4月某日

山竹伸二『「認められたい」の正体 承認不安の時代』(講談社現代新書)を読む。

現代ニッポンのよくある傾向分析、かと思いきや、現象学まで登場する本格的な思考実験本。まだ20ページほどしか読んでいないけれど、これは読み応えがありそうだ。

人間が社会で求める「承認」の範囲が身近な人たちだけに狭められ、その動機が仲間はずれにされたくない(=孤立したくない)ことに限定される――――現代社会を生きている人であれば誰しも経験したことのある現実だろう。「承認」をめぐるゲームはいつまで続けなければならないのだろうかという不安――――。

4月某日

森茉莉『私の美の世界』(新潮文庫)を読む。

あいかわらず独特の文章であるが、この文庫にはふつうのエッセイが収められている。ふつう、というのは父鴎外の思い出とか息子の話とかではなく、森茉莉がいま目にしたことをそのまま書いているということ。その「いま」というのも、吉田茂が国葬された云々の「古い」時代の話なのだけれど。