2011年9月30日金曜日

ワシントン・ナショナル・ギャラリー公式ガイドブック

9月某日

本国のワシントン・ナショナル・ギャラリー / National Gallery of Art, Washington (NGA)の公式サイトを眺めていると飽きないのだが、ふと、ギャラリーショップのページでいろんなグッズが販売されているのを見つけた。

展覧会カタログやポスター、、DVDなどが公式グッズとして並んでいて、そのなかにGuides to the Collection(所蔵品案内本)として何冊かの美術館オリジナルのガイドブックがある。カタログも貴重だが、おそらく現地でしか買えないガイドブックもなかなか貴重だ。

ネットで注文できるということで、早速2冊を注文してみる。支払いはクレジットでFedExにより届くとか。

一週間くらいかかるかなと思っていたら、2日で届いた。早すぎる。

購入したのは次の2冊。

National Gallery of Art, Washington
  $16.95, Softcover, 332 pages, 312 color

レオナルド・ダ・ヴィンチのクールな絵が表紙のこの本は、コート紙にフルカラー、312枚もの絵がおさめられる。とても素敵な本だ。


洋書だからすべて英文だが、比較的平易な英語で書かれているのでとても読みやすい。これはお買い得だった。

絵画だけでなく、NGAが所蔵するあらゆるジャンルの美術品が写真つきで紹介され、贅沢なガイドブックとなっている。作者ではなく、作品ごとに解説がなされているのが特徴。

注文したもう1冊は、英語以外にスペイン語、フランス語など各国語の翻訳があるこちらの本(日本語版)。

Martha Richler, National Gallery of Art, Washington: A World of Art (Japanese Language Edition)
  $21.95, Softcover, 224 pages, 300 color

少し大判の本でこちらもフルカラー、300枚の写真が掲載されている。だが、こちらはちょっとダサいかな・・・。


内容は、作品ごとではなく作者ごとに複数の絵(美術品)について解説がされており、しかもひとつの美術史ともなっていて物語的に話が構成されている。つまり、この画家から次の画家へという流れがわかるような文章だ。だから流れによっては二度、三度登場する人もあるわけで、その点、読んでいてとても面白い。

ところがこの日本語本、訳がちょっと下手なのである(翻訳が分担されたためかバラつきがある)。日本人が翻訳したのは間違いないのだけど、訳者の名前は一切掲載されていない。協力者として、Hata Stichtingの名前はある。これは東京に本部がある財団ハタ・ステフティングのことで、おそらくこの財団が翻訳を担当したのだろうが、Translatorとしてのクレジットはないのだ。不思議な本である。

NGAの公式ガイドブックを明らかな翻訳文で読むというのは、「外車の操作パネルが日本語だった」というくらい違和感がある。これなら英語で読んだほうが雰囲気がでるし、自然な文章を読めることになるだろう。これは失敗であった。

値段は送料$15.74を含めて計$54.64。円高の今が買い時である。

ところで・・・ひとつ気になった箇所があった。それは、本の奥付に、印刷がシンガポールと中国となっていたこと。東アジアからアメリカにいって、そのアメリカから日本に空輸されてきたのだろうか、あるいは直接、アジアから運ばれてきたのだろうか。お届け期間が2日というのはあまりに早すぎる。アジアの倉庫から輸送されたとしたら、ちょっとショックだな・・・。

2011年9月26日月曜日

展覧会解説講座「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展の見どころ」に行ってみる

9月某日

一週間前に行ったばかりなのに、ふたたび京都はワシントン・ナショナル・ギャラリー展へ。

今回の目的は、学芸員による解説講座に参加するためである。

◇展覧会解説講座

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展の見どころ」

  講師:後藤結美子(京都市美術館学芸員)

  日時:9月24日(土) 14:00~15:00

美術館ビギナーだからこのような講座を聴くのは初めてでとても楽しみにしていて、講師はよくあるような大学教授ではなく美術館所属の学芸員(キュレーター)の人というのも興味をそそられたのであった。

京都市美術館に到着したのは午後1時前。定員が100名しかなく、整理券が配られるのが開始から1時間前の午後1時からだったからギリギリで大丈夫かなと心配していたが、整理券配布の列に並んだときは50番目くらいで、無事手にすることができた。

始まるまでの時間を利用して先に館内へ入る。ちなみに、隣のフェルメール展は入場50分待ちだ。とても観る気がしない。

こちらは入場待ちはなかったけど、先週とうってかわって結構混雑している。時間帯が前回は終了間際、今回はお昼どきだったかもしれないが、観たいものはだいた決まっているから真っ先にそれらの絵に向かう。マネの「鉄道」とカサットの「青いひじ掛け椅子の少女」、そしてベルト・モリゾ、である。

すいているところから順に(実は美術館ではこれが大事)これらの絵を中心として前半部分をほぼ観終えたところでもう一時間がたってしまう。全然時間が足りない。慌てて講座へ向かおうといったん外にでてから別棟の講演室に行く。整理券を受け取るまでてっきり本館の別の階で行なわれるのかと思っていたが、なんだか古い別の建物の中で行なわれるようだ。

講演室に入って席につき、メモをとる気十分でノートを開いたが、スクリーンにスライドを写すため部屋は真っ暗になってしまう。残念・・・。

さて、講師は同館学芸員の後藤結美子さん。

1999年にも同じ京都市美術館で開催された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」(以下NGA展)を担当されたらしく12年を経てふたたび開催されることに感慨深いです、と云う。1999年にも展覧会に行ったことのある人の挙手をもとめたら、10人以上(もっと?)の人の手が挙がり、心から羨ましく思う。(10年前なら十分行けた年齢だ。美術を知らないというのはとても悲しい。)

ポスターについてこぼれ話をしてくれた。東京展のほうはマネの「鉄道」がポスターに採用されたが、京都展のほうは違ってゴッホの「自画像」が使用されている。これは、東京では「鉄道」のほうが人気があり人が入りやすいからで、一方関西ではゴッホのほうが断然人気があるからだという。東京に戻りたいと思わずにいられないが、フェルメール展がそうであるように関西でも同じものが開催されるのだから最近少し気に入っている。(でも「鉄道」のポスターが欲しい。)

NATIONAL GALLERY OF ART, WASHINGTON について

本題はまず「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」の紹介から。正式名称は「NATIONAL GALLERY OF ART, WASHINGTON」(NGA)で、「NATIONAL」とつくから「国立美術館」と訳せばいいものをなぜカタカナで表記するのだろうか。それはこの「NATIONAL」が「国立」というより「国民のための」の意味合いが強いためで、設立の由来が一民間人の発意によるものであることが大きい。(このあたりはカタログに詳しい。)

NGAは、運営経費は一応国が出しているものの、美術品の購入費や展覧会の開催費などはすべて民間人の寄付によってまかなわれている。しかも美術品は寄贈によっても相当数集められた(むしろこちらが大多数?)。寄付金による購入と寄贈であれだけの作品数(約12万点!)が集まるのだから、まさしく「国民による」「国民のための」美術館であるといっていいだろう。そういう姿勢は日本でも見られればいいのだが・・・。(なお、この文を書くにあたっては『芸術新潮』2011年6月号も参照している。以下同じ。)

美術館の公式サイトも充実していて、所蔵作品それぞれに写真が添えられ注釈もついており、便利なことに今現在展示されているかどうかも確認できる。この作業はばかにならないはずで、豊富な資金と濃やかなサービス精神がある証拠である。ぜひとも実際に行ってみたい美術館だ。

NGAの説明がなされたあと、いよいよ本題。今回の章立てにそってそれぞれの画家・作品についての解説が行なわれた。

その中からいくつかの面白いお話を紹介。

コロー / うなぎを獲る人々

     コロー / うなぎを獲る人々

この絵は中央の木で左右に分けてみることができる。左半分は4人の家族?を中心とした絵であり、右半分は川とそれを取り囲む木々の絵。とくに右側は奥の光源に向かって伸びる川(水面に木が映る様子)が美しく、見事な奥行きを表現している。これは云われてみて初めて気づいた点だった。

ちなみにタイトルの「うなぎを獲る人々」というのはコロー本人がつけたものではなく、川の中にいる人の姿がうなぎを獲っているように見えるから、そう呼ばれるようになったらしい。不可思議な由来である。フランスでもうなぎを食べる習慣があるが、その料理はうなぎをブツ切りにするとても大胆なものとか。

マネ / オペラ座の仮面舞踏会

     マネ / オペラ座の仮面舞踏会

当時の仮面舞踏会はいわゆるブルジョア紳士と娼婦の出会いの場所であった。猥雑な空間であるが、マネ本人も(取材なのかどうか知らないが)参加したことがあったという。

しかし絵の人物たちのなかで「仮面」(マスク)をつけている人は少ない。左下の床に落ちている黒いものはマスクだという。中央の派手な服を着た娼婦もマスクをしておらず、積極的に男にアピールしている。仮面舞踏会の「仮面」は建前にすぎなくなっていたということだろうか。

教えられないと気づかないが、右から二人目の男性がマネ本人だ。そして右下の床にある白い紙はダンスカードと呼ばれるもので、ここにマネの名前が書かれている。登場人物の一人の署名であり、絵自体の署名でもあるという心憎い?アイデアだろう。

エドゥアール・マネ / 鉄道

     エドゥアール・マネ / 鉄道

この絵がNGA展の本当の主役であると個人的(筆者的)には思う。本物の素晴らしさはぜひ美術館で自分の目で確かめていただきたい。

さてこの絵には、鉄道自体がまったく描かれていないのに「鉄道」というタイトルがマネ本人によって付されている。煙がもくもくとたっているが、この煙のせいで列車の姿は見えず線路らしきものも判別できない。ではなぜ「鉄道」というのだろう・・・。

このあたりの推理というか解釈については、私(筆者)は関心がもてない。それほど「鉄道」という名前に意味があると思えないのである(もちろん、探ろうと思えばいくらでも見つけられるだろう)。それよりも、(この絵に限っては特に)純粋に絵の美しさを楽しみたいと思うのだ。その上で、想像力を少し足して、この絵の楽しみ方を加えてみたい。

まずこのふたりの関係である。普通に考えれば、母と子なのだろう。母は本を読み、娘は(相手をしてくれない母から離れて)列車が通るのを見ている。少し淋しいと云えば淋しい場面かもしれない(いや単に子どもが鉄道を見るのに飽きるのを母親が待っているだけかもしれない)。しかし・・・。

服の色が対照的なのも後藤さんの指摘で初めて気づいた。女性のほうは青をベースに裏地が白の洋服を着ているが、子どもは白のドレスに青い大きなリボンがついている。基調が正反対なのである。ここにも母と子?の行き違いがみてとれるわけである。

ところでこの女性のモデルについては面白い話があり、あのマネのもうひとつの代表作「オランピア/Olympia」のモデルと同一人物なのであった。これを聞いたとき、ええっ!と、めちゃくちゃ驚いた(有名な話らしい・・・)。「オランピア」は美術本でよく見る絵で、女性のヌードを描いた問題作である。

     エドゥアール・マネ / オランピア
          所蔵:オルセー美術館

高階秀爾『誰も知らない「名画の見方」』(小学館101ビジュアル新書)によれば、それまで西洋で描かれてきた裸婦像は神話上の女神がモデルであったが、マネは実在する女性の裸体を描いた。発表当時、「恥知らず」との批判に散々さらされたという。「オランピア」のもうひとつの特徴として、従来のように肉感を陰影で表現するのではなく、輪郭線を強調し平面的に描かれている。これは日本の浮世絵の影響だった。

そんな話を読んでいたのでこの絵はよく知っていたのだが、「オランピア」と「鉄道」の女性が同じ人だったとは・・・。

彼女の名前はヴィクトリーヌ・ムーラン。面白いのは、ムーラン自身が後に画家になったということだ。彼女の作品のうち現存するものはごくわずからしいが、そういった現実の物語はとても魅力的である。

これだけではない。NGA展に飾られている絵にエヴァ・ゴンザレスの「家庭教師と子ども」というのがある。

     エヴァ・ゴンザレス / 家庭教師と子ども

「鉄道」と、構図がとても似ている(もっとも、知らずに最初に見たときは全く気づかなかった・・・)。こちらに向いている女性と後ろ姿の子ども。しかも子どもは同じように「柵」を手でつかんでいる。服の基調の明るさは逆ではあるし、女性と子どもの立ち位置も反対なのだが、ふたつの絵に何らかの関係を見出してもおかしくはないだろう。画風も近いものがある。

     エドゥアール・マネ / 鉄道 ※再掲

実はエヴァ・ゴンザレスはマネの弟子なのである。それも、マネ公認の唯一の弟子であるという(マネの絵のモデルもつとめた)。一般には、「家庭教師と子ども」は「鉄道」に捧げられたオマージュとして解釈されている。

この絵のタイトルが「家庭教師と子ども」であることに注目すると、マネの「鉄道」のふたりの関係は母と子ではなく、家庭教師と子どもなのではないか――この一連の話を聞いたときは身体がゾクッとしてしまった。マネとゴンザレスの実際の関係から「絵」の物語が積み上がっていく面白さが、ここにはある。

個人的な感想を述べれば、「鉄道」の女性の瞳の大きさに注目したい。おそらく実際の瞳よりも大きく描かれているに違いない。そして女性の着ている洋服のボタンも、ふつうのボタンに比べてずいぶん大きい。ここがフォーカスポイントとなって(大きな瞳はかわいらしさを象徴する)、「鉄道」の絵の魅力と人気につながっているのではないかと思うのだ。

アルフレッド・シスレー / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り

 アルフレッド・シスレー / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り

1872年、シスレーは友人のモネをアルジャントゥイユに訪ねた。前年からモネがこの地に移り住んでいたからである。

人物画ではなく風景画を好むという点でふたりは共通の関心をもっていた。実は、シスレーのこの絵と同じ時に同じ場所で、つまりキャンバスを並べて描かれた作品がモネにあるのである。

     クロード・モネ / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り
          所蔵:Yale University Art Gallery

同じ構図で別の画家が、まったく同じときに描いた絵というのは珍しいだろう。そのため、ふたりの画風の比較が容易にできる。

まず明るさが全く違う(画像だから多少、実物とは色合いが異なるが)。シスレーの単色に近い情景に対し、モネは季節を感じさせるカラフルさである。また、小さな画像ではわかりにくいが、拡大してみるとシスレーのほうがずっと細かく描かれている。モネはおおざっぱだ。

個人的に面白く思うのは、シスレーは控えめに道の端っこ、他人の邪魔にならない位置にキャンバスを構えているのに、モネは道のど真ん中ということ。性格の違いなのか、知名度の違いなのか、はたまた本当は別のところで(大部分を)描いたのか知る由もないけれど。

セザンヌ / 赤いチョッキの少年

(セザンヌには「赤いチョッキの少年」という作品が4枚あるというお話を書く予定)


フィンセント・ファン・ゴッホ / 薔薇

最後にゴッホ。

ゴッホは個人的にはあまり関心がないため、絵の前に集まる人の頭越しに数分眺めただけだった。この絵の「秘密」には当然、気づきもしなかった。

     フィンセント・ファン・ゴッホ / 薔薇

中央のバラのいくつかをよく見てみると、白の花びらのところどころに赤味がある。実は、ゴッホの描いたバラはすべてが白色であったのではなく、その半分くらいが赤(紫?)だったという。

この絵にゴッホの使った赤の絵具は退色の進度がはやく、NGAにやってきたころにはすでに赤の面影はなくなり、すべて白のバラの花になっていたのだった。この白のバラのなかに赤のバラがあったとすれば・・・絵の印象は大きく違ってくる。もっと原色豊かな、派手な絵になっていたことだろう。

私にはこの白いバラのほうが素敵に思えるのではあるが。

2011年9月25日日曜日

過去の美術展覧会インデックス

過去の展覧会



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展覧会名:
  ワシントン・ナショナル・ギャラリー展
印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション 



期間:
2011年6月8日 - 9月5日, Tokyo
2011年9月13日 - 11月27日, Kyoto

場所:
国立新美術館, 六本木, Tokyo
京都市美術館, Kyoto

主な作品:
マネ / 鉄道、
モネ / 日傘をさす女性
セザンヌ / 赤いチョッキの少年

公式サイト:
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 公式サイト
同 京都展 公式サイト
京都市美術館

コメント:
2011年9月19日を皮切りに、複数回行った。

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展覧会名:
  フェルメールからのラブレター展
コミュニケーション:
17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ



期間:
2011年6月25日~10月16日, Kyoto
2011年10月27日~12月12日, Miyagi
2011年12月23日~2012年3月14日, Tokyo

場所:
京都市美術館, Kyoto
宮城県美術館, Miyagi
Bunkamura ザ・ミュージアム, 渋谷, Tokyo

主な作品:
フェルメール / 手紙を読む青衣の女、手紙を書く女、手紙を書く女と召使い
テル・ボルフ / 眠る兵士とワインを飲む女
デ・ホーホ / 中庭にいる女と子供、室内の女と子供、トリック・トラック遊び

公式サイト:
フェルメールからのラブレター展 公式サイト
京都市美術館
宮城県美術館
Bunkamura ザ・ミュージアム

コメント:
2011年8月5日を皮切りに、複数回行った。

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展覧会名:
  フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展

期間:
2011念3月3日 - 5月22日, Tokyo
2011年6月11日 - 8月28日, Toyota

場所:
Bunkamura ザ・ミュージアム, 渋谷, Tokyo
豊田市美術館, Toyota

主な作品:
フェルメール / 地理学者
テル・ボルフ / ワイングラスを持つ婦人
ヘリット・ダウ / 夕食の食卓を片づける女性

公式サイト:
フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 ※消滅
豊田市美術館
中京テレビ

コメント:
2011年8月11日、高速を使って豊田市まで観に行った。駐車場から坂道を登る途中でデジカメを落として壊れてしまったのが痛切。

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展覧会名:
  フェルメール展
~光の天才画家とデルフトの巨匠たち~


期間:
2008年8月2日~12月14日

場所:
東京都美術館, Tokyo

主な作品:
フェルメール、ファブリティウス、デ・ホーホ、デア・ヘイデン

公式サイト:
フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち
東京都美術館

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展覧会名:
メトロポリタン美術館展
ピカソとエコール・ド・パリ


期間:
2002年9月14日~11月24日, Kyoto
2002年12月7日~2003年3月9日, Tokyo

場所:
京都市美術館, Kyoto
Bunkamura ザ・ミュージアム, Tokyo

出品作品数:
××点 (うち日本初公開、42点)

主な作品:
ピカソ、マティス、モディリアーニ

公式サイト:
メトロポリタン美術館展


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2011年9月24日土曜日

絵画集 / ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 京都

9月某日

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展(京都市美術館)に集められた絵のなかでほかに気に入ったものまとめ(カタログナンバー順)。すでに掲載したもの、次回以降に掲載したものはこちら。

23.9.20.ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 -京都市立美術館

23.9.21.印象派の「現在」性 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー展

23.9.26.展覧会解説講座「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展の見どころ」に行ってみる

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ギュスターヴ・クールベ / ルー川の洞窟


ウジェーヌ・ブーダン / オンフルールの港の祭


エドゥアール・マネ / オペラ座の仮面舞踏会


エドゥアール・マネ / プラム酒


エドガー・ドガ / 舞台裏の踊り子

アルフレッド・シスレー / アルジャントゥイユのエロイーズ大通り


ベルト・モリゾ / ロリアンの港

ピエール=オーギュスト・ルノワール / モネ夫人とその息子


ピエール=オーギュスト・ルノワール / シャトゥーの漕ぎ人たち
※実物はこれほど色鮮やかではなく、もう少し淡い色合いで控えめである


メアリー・カサット / 青いひじ掛け椅子の少女
絵の下側に薄茶色の部分があるが、これはカサットの塗り残し(塗り忘れ?)らしい。床が単色で塗りたくられているのと同様、かなり適当な人のようだ。いや、もちろん、故意なのだろうけれど。


メアリー・カサット / 浜辺で遊ぶ子どもたち


メアリー・カサット / 麦わら帽子の子ども

ギュスターヴ・カユボット / スキフ(一人乗りカヌー)

エヴァ・ゴンザレス / 家庭教師と子ども

ポール・セザンヌ / 赤いチョッキの少年

アンリ・ロートレック / カルメン・ゴーダン

(24.3.24.追加)

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展覧会名:
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 
印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション
公式サイト

場所:
京都市美術館 =公式サイト

期間:
2011年9月13日~2011年11月27日

出品数:
83点 (うち日本初、約50点)

所蔵館:
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
/ NATIONAL GALLERY OF ART, WASHINGTON
公式サイト

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2011年9月21日水曜日

印象派の「現在」性 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー展

9月某日

( 前回 )

閉館まで残り20分。残るブースはふたつ(全体の半分)。鑑賞にはちょっと不可能な時間だ。

急いで移動した先は、3つめのブース「3. 紙の上の印象派」。エッチング(版画の一種)やリトグラフ(これも版画の一種)が集められている。かなり珍しいものもあるようだ。

マネの「ベルト・モリゾ」やセザンヌの「自画像」もある。セザンヌの自画像については『近代絵画』のなかで小林秀雄が、表現ではなくモノとして自分を描いているところにセザンヌの自画像の特徴があるとかそんな話を語っていたのを思い出し、これはいいものが観られたかもしれないと思う(秀雄が直接引き合いに出しているのは油彩画の自画像だが)。しかし時間がないので、最後のブースへ。

「4. ポスト印象派以降」と題された部屋の主役はゴッホであった。この部屋の、というよりこの展覧会のメインがゴッホだ。ゴッホどころか印象派もはじめてのド素人としてはその名前だけで満足である。黄色の「自画像」もあったが、青が基調の「薔薇」が飾られる3枚のうちでもっともよかった(でも帰宅してからカタログをみていると、「プロヴァンスの農園」のほうがいいかもと考えを改める)。

     ゴッホ / プロヴァンスの農園

もうひとりの主人公はセザンヌ。同じく『近代絵画』ではセザンヌについて熱く語る小林秀雄の真意がよくわからないままだったのだが、実際の絵を観てみれば、なんとなく、感覚的に、その一端がわかったような気がした。

     セザンヌ / 水辺にて

なかでもこの「水辺にて」という絵が気にいった。やけっぱちのような描き方だけど、白地の残し方などが慎重に計算されているような気がする。もうひとつ圧巻だったのは「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」。

     セザンヌ / 『レヴェヌマン』紙を読む画家の父

あとで調べると有名な絵らしいが、何も知らずにみてもとても特徴的な絵だった。顔の部分を子細に眺めると貼り絵のようにわずかに濃淡の違う色が描き分けられていて、こんなタイプの絵ははじめてみたのだった。リアル・セザンヌをみた後で小林秀雄の文章を読めば、ぐっと理解が高まるだろう。

カタログやネットでセザンヌについての文を読んでいると、今回アメリカからやってきた中ではどうやら「赤いチョッキの少年」のほうが有名らしい。この絵は時間に追われながら軽く観ただけで終わったので失敗した。次回来たときに観てみるとしよう。

いよいよ閉館時間の17時となった。そして17時を過ぎただろうのに追い出される気配はない。もう少し粘ることにする。もう一度、モネとモリゾをみたい。

なにより、館内にはもう数人しかいない。絵を独占する絶好のタイミングだ。

Uターンしてモネの「日傘をさす女性」の前に向かう。すると、外国人の夫婦?が絵の前に立って会話をしていた(言葉からフランス人だとわかった)。とくに着飾ったわけではないごくごくふつうのフランス人の夫婦が楽しそうにセザンヌに向かって言葉をかわしている光景は、それ自体、いい絵になりそうだった。

その横に並んでじっくり絵を眺めた。(ほぼ)独占である。ふらっと立ち寄ったワシントン~展だが、とても幸運だったのかもしれない。

そして最後にベルト・モリゾの絵を、こちらは完全独占して楽しむ。自分だけの絵のような錯覚がする。

監視する人たちの視線が気になりだしたので、ここで退場。

フェルメールが目的だったのが、モリゾとモネの印象派に感激する一日となった。

印象派の「現在」性

ただ淋しく思うのは、客がとても少なかったこと。

フェルメールはたしかにすばらしいし、貴重なものなのだが、モネの「日傘をさす女性」も同じ程度にすばらしく、貴重なのである。「絵」としてみてみれば質はまったく劣るところはなく、絵の素人である私でさえかけられた絵の前で美しさに釘づけとなるのだ。

フェルメール展に集められた絵画は17世紀を中心としたやはり「古い」ものである。現代の私たちには印象派の(物語としてではなく描写として)劇的な絵画のほうが自分の感覚にしびれるものがあるはずだ。精緻さと物語、ありのままの情景を追求した17世紀の絵画はすぐれて、描かれた時代にがんじがらめとなって(つまり切り離すことはできず)、私たちにとってはいわば「過去」が表現されているものと云えよう。

だが印象派絵画にあらわれる「感覚」(印象)の発露は、もっと汎時代的な受容が可能なのではないか。19世紀でも20世紀、21世紀でも、人間の感覚は大きく変わるところはないのであって、だからこそ印象派の絵画は、客観性ではなく人間の感覚性=主観性に訴えかけるものであるにもかからわず、「現在」を普遍的に表現するものと云えるのではないか。

もちろん「過去」を楽しむことをが好みである人は多いだろうし、私もフェルメールのみならずテル・ボルフ、デ・ホーホらが描く17世紀オランダの一場面一場面は気にいっていて、その美しさは時代を超えて伝わりうるものであることに疑問の余地はない。

ただそのときの楽しみは、17世紀オランダ=「過去」を歴史として、いまの人たちに直接かかわりのないものとしてみる立場でのものとなるはずだ(私たちは欧州人の歴史性さえ帯びていないのだ)。それは、少し距離を置いて絵画をみる姿勢を私たちにとらせ、そのとき、「感覚」ではなく絵本来の出来や物語の意味をさぐる、少し分析的な態度になってしまうのではないか。「当時の人たちは・・・」(あるいは「当時の人たちも・・・」)という言葉を云わずにいられない姿勢それ自体が歴史的である。

それよりも、絵をみて感じたところを(解説やウンチクを語らずとも)そのまま受け入れることができる印象派の感覚主義は、よりずっと時代と場所を超えた影響力をそなえていると云えないだろうか。ある意味絵に物語的な深みが欠落していることもあって、印象派絵画は観たままの感想で楽しめる気安さもあるのだ。

だからこそ思う。フェルメールの名前や貴重性に反応するよりも、絵そのものに反応できる印象派の絵画を観ることのほうが、私たち日本人が日常に絵画を溶け込ませるためのより素晴らしい方向なのではないかと。絵画は仰々しいものであって欲しくはないと思うのだ。

2011年9月20日火曜日

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 -京都市美術館

9月某日

( 前回 )

フェルメール展が50分待ちなのは、開催期間が残り1ヵ月をきってしまい宣伝回数も十分に達した時期であるため驚くことではないのだが、同じ京都市美術館のなかの反対側ブースで(1週間前の)9月13日から開催されている「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」にはまったく人が並んでいない。チケット売り場にも人のいる気配がない。

フェルメール展も1ヵ月ほど前までは入場規制がかかっていなかったのでそういうものなのかもしれない。けれど今回はサブタイトルが「印象派」なのである。

公式サイト:
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション

印象派・ポスト印象派はフェルメールほどの知名度はないかもしれないが、それでも今回展示されるルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの名前はあまりに有名だ。展覧会名自体にその名前があるほうがむしろ自然で、そんな大御所が何人も集まっているのだからフェルメールに匹敵する魅力はあると思うのだが・・・。

さて、チケットを購入してさっそく中へ。ガラガラである。平日ではなく休日の午後なのに。でも観るほうからすれば、こんなにラッキーなことはない。隣の展覧会の混雑で結構疲れ気味のところ、ワクワクしながら進んで行くと、マネの「鉄道」が見えてきた(「1. 印象派登場まで」)。

マネ / 鉄道

印象派については(というか美術全般について)よく知らない私ではあるが、この「鉄道」は見覚えがある。マネ本人は印象派というよりその先駆者という位置づけらしいが、あぁこれが印象派だと思わせる絵の色合いがはっきりとわかり、それだけで興奮してしまう。

モネの「日傘をさす女性」があるなんて

ほかにコローやクールベなど名前くらいは聞いたことのある画家の作品がいくつもならび、さっきまで観ていたフェルメールの時代=17世紀とはまったく異なる画風(非常に視覚的な)がとても新鮮に感じられる。そして「2. 印象派」という次のブースに向かうと言葉にならない衝撃が・・・!

モネの「日傘をさす女性」(本展覧会では「日傘の女性、モネ夫人と息子」というタイトル)が本展のファーストメインというような位置づけで斜めの壁にかけられていたのだった。これはあまりに有名な絵だ。モネに触れたどんな本にもでてくるくらいの絵(ほぼ同様の構図の絵が複数あるが)。

モネ / 日傘をさす女性

まさかこの絵を観ることができるとは全く予想していなかったので、ほんとうに驚いた。衝撃とはこのことである。あらかじめ家で確認してきた展覧会の公式サイトにはこの絵の紹介が一切なかったのであるから、不意打ちも不意打ちだった。口をポカーンと開けてしまう。

写真でみるよりずっといい。すばらしい。うまく表現できないが、なにかこう、まさしく印象派的な、色が流れる感じが直接身体に伝わってくる。すばらしすぎる。

女性にまとわりつく光と風。光を反射し、風になびく草々。ほかのだれがこの絵を書けるだろう。

閉館まで残り30分しかない。ほかの絵もみないといけないので、しぶしぶその場を離れる。もう一度、ゆっくり時間をとって、この展覧会に来ようと思うのだった。

このブースにはほかにも、ドガの「舞台裏の踊り子」があったり(かの有名な「踊りの花形(エトワール)」ではない)、ルノワール、ピサロが飾られているが、ある絵をみて「んん?」と意識が集中する。もしかして・・・画家の名をみると、ベルト・モリゾとあった。

ベルト・モリゾがあるなんて

個人的な最大の衝撃は、(モネではなく)ベルト・モリゾの3枚の絵(すべて初見)だった。モリゾの絵もあるなんて、公式サイトにはひと言もなかった。なんということだ、公式サイト。

印象派のなかで私がもっとも気にいっているのはベルト・モリゾである。あの適当な感じが好きなのだ。

プレートにその名前をみつけたとき、「あっ」と声をあげてしまったけど、なにも申し訳ないとは思わないところに衝撃の大きさがある。数枚程度しかモリゾの絵を知らないのに、絵の印象からなんとなく画家が誰であるかわかったことも嬉しく、自分の美術レベルもあがったなとも思った(ゴッホなら誰でもわかるだろうけど、モリゾはなかなかわからないだろう)。

先に書いた通り、今回はモリゾの絵は3枚あるのだが、いずれも知っていた絵ではなかったけどそのなかで最も気にいったのは、「麦わら帽子をかぶる若い女性」だ。

ベルト・モリゾ / 麦わら帽子をかぶる若い女性

画像でみるとなんともさえない印象をうけるが、実際の絵はもっとカラフルで迫力がある(注:あとでカラフルなものをネットで見つけてきて差し替えた。この画像が実物より若干明るすぎるくらい)。流れるような(勢いのある)筆づかい、それと反対のさりげない表情。できうる限り身を乗り出して近づいてみれば、モリゾのひと筆ひと筆が手にとるようにわかる。モリゾのなかでもさほど有名な絵ではないけど、この展覧会で個人的に一番よかったのがこの「麦わら帽子をかぶる若い女性」だった。

「あと20分で閉館」のアナウンスが響く。いかん、あと2つのブースが残っている。ゴッホもまだなのだった。

( つづく )

2011年9月19日月曜日

フェルメール展なのにテル・ボルフが素敵

9月某日

3回目の「フェルメール展」(京都市美術館)へ行ってみる。

今日の午後は雨が降るから人が少ないだろうと予測してこの日を選んだのに、入場50分待ちだった。実際には30分くらいで入れた気がするが、フェルメールの人気はすごいと思う。最近よくテレビなどで取り上げられたらしいのでその影響が大きいのだろうか。

だけど、その人気は多分にミーハーなものだろう。絵画に関心があって来た、という人がどれだけいただろうか。フェルメールの名前、知名度にひっぱられ、芸能人がいるから来てみたぐらいの気分が多かったのではないか。

もちろん、それ自体を否定するわけではないが少し残念に思ったことがあったので、それは後に書くとして、立ちっぱなしで待つこと30分以上、ようやく入場。3回目だから慣れたもの、真っ先に一番奥のブースに向かう。疲れる前にフェルメールを観るのである。

さすがに人が多い。各ブースでほとんどの人が飾られる順番に絵の前に立つのを律儀に思いつつフェルメールのブースに入ると、これまたすごい人だ。後頭部の隙間から絵を眺めるのはなんだかちょっと寂しい。でもこれはこれでいい光景かもしれない。とりあえず「手紙を書く女」と「手紙を書く女と召使い」をじっくり観る(「手紙を読む青衣の女」はあまり興味がない)のだけど、何回も観て新鮮さがなくなったのか人が多すぎて落ち着かないのかあまり関心をもてないのがショックだ。

重なる人垣がフェルメールへの愛着を冷静にさせたのかもしれない。なんで君はフェルメールを観に来たのだね、という問いだ。事実、いくつかの絵を除いて、フェルメールの絵よりもフェルメール自体に興味があると云える。それはほかの人と同じではないのか――――。

ブースを後にして、今回は反対の順序から絵を観てみる。やはりテル・ボルフの「眠る兵士とワインを飲む女」がお気に入りだ。それとデ・ホーホの「室内の女と子供」。このふたつをじっくり眺める。

テル・ボルフ / 眠る兵士とワインを飲む女

デ・ホーホ / 室内の女と子供

とくにテル・ボルフの絵(ワイン)は好きすぎて仕方がない。今回、スカーフを結んだ首元のところに青いリボンがあるのを発見した。白のスカーフ、青のリボン、黒のカーディガン(?)、白のドレス、赤い椅子。原色ばかりで主張が強い色合いなのに、全体がずっと落ち着いた印象を受けるのはなぜだろうか(貼り付けた画像より本物はずっと薄暗くて地味だ)。

もはやフェルメールはどうでもよくなって、この絵ばかり眺める。ほかの人はだいたいこの絵は一瞥するだけで次の絵に移っていくが、テル・ボルフの前から全然動けなくなる。これが絵を観るということなのだな、と思う。

さて、ひと通り観てから、隣の展覧会に足を運ぶとしよう。先週から同じ京都市美術館の反対側で「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」が開催されているので、実はこれも少し楽しみにしていたのだった。そしてこれが、思わぬ感激を与えてくれるのだった。

( つづく )

2011年9月12日月曜日

ミシェル・フーコー?まったくなんという・・・

9月某日

忙しくなって読む時間がすくなくなってきたが、目を通したものをざっと挙げる。

今日は、机の上の積読のなかから、花田清輝『恥部の思想』を抜き出して拾い読み。

1965年の単行本だから古い。「現代は資本主義から社会主義へと移行している過程にある」と書くくらいだから、いかにも古い。でも、花田清輝は初めて読むから新鮮だ。

「現代美術」というエッセイと、東京音頭についてのエッセイだけとりあえず読んだ。「恥部」を葉っぱであからさかまに隠す絵画について(画家の名は忘れた)と、当時東京中に鳴り響いた東京音頭の煩わしさについて。

東京音頭の作詞は西條八十。この名前はよく目にする。西條の本はたしか一冊持っていた気がする。坪内祐三の紹介で購入したはずだ。

花田は幕末から明治初期の「ええじゃないか」、昭和初期のナントカと、この東京音頭を比較していた。細かいことは忘れた。

小林秀雄『近代絵画』(新潮文庫)を読む。

ドラクロア、セザンヌのところまで。批評とはこういうものを云うのだというお手本のような文だ。ぐいぐい読ませる。

城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書)を読む。

まだ20ページくらい。天皇の政治的意味はまだまだ強い。

重田園江『ミシェル・フーコー』(ちくま新書)を読む。

いまはもっぱらこの本を集中的に。まえがきの男前な文から期待させる。しかし本文は若干まとまりを欠いた文章に見える。もっとすっきり書けたはず。でも、じっくり読めば至極論理的だ。ただ、寝ながら読む本ではないということだ。

ついてでにフーコーの『狂気の歴史』(新潮社)も開いてみる。

序文がおそるべきつまらなさ。前回は50ページくらいまで読んだが、今回は1ページで投げ出す。いつか読む日が来るのだろうか・・・。