2011年7月16日土曜日

光に照らされる部分 - 西洋の絵画

7月某日

宮下規久朗『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』を読む。

シリーズ第一作の高階秀爾本はなかなか面白かったので、フェルメールが題にとられていることもあり、読んでみる。

日本絵画が光の明暗を意識しない絵画であるのに対し、西洋の絵画ではとりわけルネサンス期以降、明暗を書き分ける技法によって描かれてきた。その「西洋の明暗」の起源をさぐる著作である。

まえがき、を読んでいた時点では短い文章にあまりに多くのことを詰め込みすぎてとても読みやすい文ではなかったのだが、本編にはいって落ち着いたというべきだろうか、すらすらと読み進められるようになってきた。といっても、いわゆる「上手い」文章とは云い難い。

まだ40ページくらいなので、これからを楽しみとしよう。

それにしても、いわゆる宗教画で、キリストが光源体として描かれるのは視覚的に不自然ではないか。

太陽や電球がそうであるように、光源は光源であるがゆえに姿かたちがはっきりとはみえないはずである。こども天使が空を飛んでいるのはもっと不自然だ、というレベルの話ではなく、それ自体光っているものは、色眼鏡を通してみない限りこまかい部分は判別できないものであるし、見えないものをあたかも見えているように描くことは単純に絵としておかしな話だ。たとえ宗教画であっても写実を礎としている西洋画にあっては、このひっかかりがアダになってしまいかねない。

にもかかわらず、キリストにせよ、その筋肉のかたちまでくっきりわかるように描かれている。もしかすると、光源はキリストの「後ろ」にあるのかもしれない。だが、後光に照らされたものは、正面からは逆に影となってしまい、もっと見えなくなってしまう。とすれば・・・。

そうだとすれば、キリストが別な光に照らされ、キリスト自身が光を反射していると考えられるのではないか。光源体でなく、光の反射体なのではないか。つまり、光源は別にあるのだ。

そうして、納得するのである。キリストは神ではなく神の子であり、神は別に存在するのだったということを。(以上、無意味な仮説。)

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