2012年4月29日日曜日

ミュシャとゴーティエ。あるいは坪内祐三の新刊

4月某日

アルフォンス・ミュシャの絵を観に、堺市まで出かける。これで二回目だ。

♯♯ アルフォンス・ミュシャ館 / 堺市立文化館 ♯♯

前回は人を連れていったためじっくり観ることはできなかったし解説文もじっくり読めなかったから、今回はすべてを堪能してみた。

〔前回〕
=  2012.3.23. ペダントリー - アルフォンス・ミュシャ館 =

詳細はあらためて書くとして、いくつか印象的なのを。

しばらく眺め続けたのは横幅が4メートル以上ある「ハーモニー」。壁のひとつを占領する大作である。

     ミュシャ / ハーモニー 1908年

絵だけの画像がみつからず、美術館の展示風景をそのまま掲載。とにかくでかい。いままで観た絵のなかで最もでかい。

近づいてよく観てみれば、細かく描いてある部分とおおざっぱに描いてあるところの違いがあって、にもかかわらず一定の距離をおいて眺めればうまく溶け合っている絵。力作である。

これは中央奥の神(のような人)の前に、無数の人々が集まっている図である。神は英知を表し、左側の人々は愛、右は理性を象徴し、愛と理性という二項対立に神なる英知が調和(ハーモニー)をもたらしている場面だ。あくまで宗教的(キリスト教的)なものであるから意味を深くとらえる必要はないだろう(それはミュシャ個人の思想に強く関わる話で、一般の私たちがそこまでとらえる必要はない)。

ただ気になったのは、中央の下にある「岩」のような黒い物体。どこにも書いていないし推測でしかないが、これは人のように見えた(耳らしきものがあった)。愛と理性の間に挟まれて屍のように横たわる人はいったい何を表しているのだろうか。

「白い象の伝説」

もうひとつ、ミュシャの挿絵で(いろいろな意味で)感動的だったのは、「白い象の伝説」の一連の挿絵。

     ミュシャ / 「白い象の伝説」挿絵 1893年

絵の解説文にはこうある。「白い象の伝説」は児童文学者ジュディット・ゴーティエ(1845-1917)の物語で、ミュシャはその本の挿絵を描いたという。

物語は、仲間はずれにされた白い象と人との間に生まれたちょっと感動的な話で、こんな筋書きだ。

――肌が白いというだけで仲間の象たちからいじめられていた白い象は人間のいる地域に迷い込み、捕らわれてしまう。しかし、白い象は人間にとって神のような存在だったため、厳かな歓迎を受けた(上の挿絵は白い象に人が平伏している場面)。

なんやかやで王の付け人となった白い象は王女にかわいがられ、王女の大切な友人となる。戦場では王子の命を助け、人々の絶大な信頼を得るようになった白い象だが、王女が政略結婚のため敵国の王子と結婚するとその王子に嫌われ、王国を去る。

すべてを失った白い象はサーカス団に連れられサーカスの象としてしばらく暮らした。しかし白い象にとってそれは不本意なことだった。そこにかつて自分を大切にしてくれた王女が偶然現われ再会を果たす。王女は涙を流しながら白い象を抱きしめ、白い象はふたたび王女と暮らすことになるのだった――。

この物語(小説)の挿絵をミュシャは数十枚描いたそうだが、そのうち堺市文化館が所蔵するのは22点で、そのすべてではないがいくつかが今回展示されていた。

なかでも素晴らしかったのは、白い象がサーカスで芸をしている場面を描いた絵と、王女と再会する場面の絵。

ネットでは見つけられなかったので紹介できないのが悔しいが、とても繊細で感動的な絵だった。墨で描いた水彩画なのに単色には思えない豊かな色彩で描かれていた。ぜひ美術館でちょくせつ観てもらいたい。

この「白い象の伝説」の物語が気になって本として出ていないか調べてみたが、出版されたものの、もう絶版になっているようだ。

アルフォンス・ミュシャ
ガラリエ・ソラ
発売日:2005-10-17

いちおう児童文学書であるから、子どもたちに読んでもらいたい本だ。もちろん、挿絵とともに、大人も楽しめる本だろう。

同日

アルフォンス・ミュシャ館の帰りにブックファーストに寄る。

目当ては坪内祐三の新刊なのだが、出荷が前日であると聞いていたのでまだ本屋には並んでいないかもしれない。実際、並んでいなかった。

かわりに、というわけではないが、吉本隆明の追悼コーナーで花田清輝『復興期の精神』(講談社文芸文庫)をみつけたので購入。坪内祐三の文章でよく登場する本だから。

花田 清輝
講談社
発売日:2008-05-09

でも、買ったときに嫌な予感はしていた。その予感は帰宅してから当たってしまった。「復興期の精神」はすでに持っていたのだ。

私が持っていたのは講談社学術文庫版であったので、違うと云えば違う本である。文芸文庫版のほうは池内紀の解説があるので、それを買ったと思うことにしよう。

しかし今回「復興期の精神」を買おうと思ったのは、この本がタイトルからは想像できないことだが文学者や芸術家をそれぞれ取り上げた批評のパッケージだったから。なかにはマキャベリを語った文もある(帰りに読んだのはこのマキャベリのところ)。たぶん、いま買わなければずっと読まなかったに違いないのだから、買ってよかったのだ。

ブックファーストになかったので、あまり期待せずに紀伊国屋書店に寄ってみる。すると置いてあった。

坪内祐三
幻戯書房
発売日:2012-04-27


「あとがき」的な文章を読めば、この本は、かの名著(と個人的には思っている)『古くさいぞ私は』(晶文社)につづくエッセイ集第二弾だと云う。

これらのエッセイ集は雑誌や新聞に寄稿した短い文を集めたもので、このような文は(特に新聞のは)一度読み逃したらまず読むことはできず、すべての雑誌・新聞を網羅することはどだいできないのだから、当然単行本に収録されるまで待つしかない。

とはいえ、坪内祐三のエッセイは過去何度も単行本化されているのでは? と疑問がでてくる。(エッセイ風の連載の単行本化とは別に)書評・古本などひとつのテーマにしぼってまとめたものは確かに何冊かあるのだけれど、雑多な文のなかから雑多なまま収録するという形の本は、「古くさいぞ私は」以来ということなのだろう。

実際に目次を眺めてみれば、「訪書月刊」や「室内」(どちらも休刊)に書いた文も収められている。これは貴重だ。

本書はだが、一方で「en-taxi」に寄稿したものが多く含まれているので、個人的はすでに読んだものもある。あるのだが、発表当時に読むことと今読むことと、それはまた別の印象があるだろう。

ということで、目下、読書中。

そうそう、もう一冊忘れていた。

坪内祐三の本の隣にリービ英雄の新刊(『大陸へ』(岩波書店))も平積みされていたので、手にとって少し読んでみて、これも買ってみた。

リービ 英雄
岩波書店
発売日:2012-04-19

リービ英雄の本はいままで一冊も買ったことがない。興味がなかったわけではなく、ただきっかけがなかっただけだ。

このあいだNHKかなにかでリービ英雄が万葉集を語る番組があって(古今和歌集だったかもしれない)、その語り口に良いセンスを感じたことが大きかったかもしれない。先年、芥川賞を受賞した中国人作家が話題になったけど、外国人でありながら日本語で文を書く同じタイプの作家としてはリービ英雄のほうがずっと素晴らしいと聞いていたこともある。

本書は彼がアメリカや中国を訪れたときのエッセイ集のようなもの。彼は生まれはアメリカだが、子どもの頃に香港・台湾で過ごした経験をもち、その後日本にも住んでいたことがある。アメリカに戻ってからはスタンフォード大学などで日本文学の教授をつとめたが、それを辞めて日本に定住し、現在は日本語で小説を書いている。

おそらく3つの故郷をもつ人なのだろう。その彼が日本語によって今のアメリカと中国をどう描くのか、そこに興味をもったわけだ。

まだ20ページくらいしか読んでいないが、その感想としては、言葉の意識の強さをとても感じる文章(日本語)だなということ。て・に・を・はに若干違和感はあるものの、もの・ことをどんな日本語で表現すればいいか、苦心しながらも語りたい内容は読者に十二分に伝わってくる。つまり、とても文学的な文章だ(日本人でもなかなかこうはいかない)。

ひとつの場面を紹介。

オバマ大統領誕生のその日、​ワシントンを訪れていたリービ英雄は国会議事堂方面に向かう地下​鉄に乗り込む。同乗の客たちはみな同じ目的地を目指している。体​格の大きいアメリカ人たちはぎゅうぎゅう詰めなのにまったくいさ​かいを起こさずしずかにじっと立ち続ける(ふつうなら喧嘩沙汰になっているところだ)。

だれしも同じ感慨にふ​けっているのだ。「一人一人が歴史を意識しているの​が感じられた」。歴史、つまり黒人初の大統領の誕生という歴史的瞬間に立ち会っているという意識、数百年の間、社会のメインストリームから疎外されてきた黒人が社会のトップにたつという瞬間に、みなしずかな興奮をしているのだった。――

こういう感想は、その社会の内部にいた(いる)人たちにしかわからない実感だろう。最後まで読みとおすのが楽しみだ。






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