2011年11月9日水曜日

昭和の終わりと平成の始まり - 佐野眞一『昭和の終わりと黄昏ニッポン』

11月某日
佐野眞一『昭和の終わりと黄昏ニッポン』(文春文庫)を読む。

昭和天皇が崩御される前後の政界、社会の動きをあつかった前半と、昭和帝不在の平成時代に起きた時代的なできごとを取材した後半とにわかれる。

後半部分は正直にいって不要だった。

首都東京でも比較的貧しい地域で売春などが広まっているという傾向がみられ、いわゆる下層社会の実態を描く。一方で優れた医者が独自に病院を改革している事実が紹介される。そしてそれだけのことである。

前半の昭和の終わりの劇的なシーンとの不釣り合いが気になる。もっとも、平成という時代がそのようなもの、つまり、劇的なものがうまれない時代であるということかもしれない。

また、平成における昭和天皇の不在を語るにあたって「大きな物語」というキーワードが頻繁に登場するのだが、そもそも「大きな物語」がなんであるのか、これがない時代というのはどういうものであるか、平成にはいかなる物語がうまれようとしているのか・・・・このあたりの考察が弱すぎるのだ(ごくごく常識的な解釈しかあらわれてこない)。この程度の考察で終わるのだとすれば、「大きな物語」という言葉は持ち出す必要がなかったのではあるまいか。

本書のメインは昭和天皇の崩御にいたるドキュメント(とその影響=平成における)である。

陛下体調急変の報を受けて皇居にかけつける主治医・・・などの話は読んでいてリアルなのであるが、これも保阪正康が『昭和天皇』(中央公論)のなかですでに書いたものがほとんどであって特段目新しいものではない。それでも新しい情報が盛り込まれているし、そもそもこの時期の話は何度読んでも面白い。

ここからは佐野眞一のオリジナル?で、昭和帝の崩御に影響を受けた人物に、林郁夫と宮崎勤のふたりがいるという話が描かれる。

林はオウム真理教の信者として地下鉄にサリンを撒き実刑をうけ、宮崎は幼女を殺害したとして死刑となった。とくに慶応大医学部卒の有望な医者であった林は昭和天皇の一般参賀に何回か訪れ、同世代よりはずっと天皇への敬愛の意は強かい人物であった。宮崎も昭和天皇崩御を知らせる新聞をいつまでも自分の部屋に置いていたという(昭和天皇を祖父と同一視していたのではあるが)。

そこに昭和天皇が崩御し、「父」なる存在が消えてしまった。林は、新たな「父」をオウム真理教に求めていった(そう簡単には云えないと思うが)。宮崎については知らない。

もっとも、林の話は、これもすでに福田和也が『現代人は救われ得るか』(新潮社)のなかで書いていることではある。

それはともかく、佐野眞一は平成の時代を印象付けるこれらの事件と昭和天皇の崩御につながりをもとめていくのである。(しかし、この肝心な部分が弱い。佐野さんの他の本がそうであるように、もう一歩踏み込んだ(あるいは離れた)言説ができていないのである。せっかく題材は面白いのに。)

0 件のコメント:

コメントを投稿