2012年11月17日土曜日

ジャンルはバラバラ、本もいろいろ。ついでに人間もバラバラ

11月某日

原点に返って最近読んだ本について。

今年の6月からぼちぼち読み始めていた名著をようやく読了。だが・・・。


『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD・H・ロレンス(1885-1930)が最晩年にキリスト教批判を展開した本。ロレンスは一流の文学者であるのはもちろんだが、実は批評・評論も数多く手がけており、歴史書も書いた。本書は、幼いころからキリスト教の厳格な家庭に育ったロレンスが、その生涯と自分が生きた時代を猛烈に悪罵する自己批判の書でもある。

この『黙示録論』は最近ちくま学芸文庫に収録されたもので、実際に私が読んだのは現在は絶版の中公文庫版。タイトルも『現代人は愛しうるか  黙示録論』といい、訳者の福田恆存が原題の「黙示録論」では意味がわからないだろうからこのタイトルをつけたという訳書で、初刊は戦後まもなくのことである。ちくま版は同じ訳書をタイトルを変えて刊行している。

ではなぜ福田恆存はこの「黙示録論」を「現代人は愛しうるか」と読みかえたのか。それこそまさにロレンスの云いたかったことであり、本書のクライマックスである。

ロレンスはクライマックスでこう叫んでいる。

近代の私たちは、キリスト教の(とくにその聖書の)掲げる理念によって、互いに譲り合い、助け合い、理解し合うことが、つまり愛し合うことができないのだ。――

いやキリスト教こそ人々の愛を説いているのでは? と誰でも思う。隣人を愛せ、敵を愛せと繰り返す聖書は理想的な教えではないのかと。聖書の教えを実践できない人間の弱さこそ、問題なのではないか。……

しかし、キリストの云うように行動することが、卑屈な精神から自由でない人間に本当に可能であるのかとロレンスは問う。

確かに人がひとりでいるときには普段より高みに立って考えることはできるだろう。だが、人がふたり以上集まればそこには必ず優劣の意識がうまれ、権力が働く。相手を賞賛する言葉の裏にも、避けがたくそれを否定する言葉を精神に同居させ、精神上の権力者であろうとするのが人間だ。つまり、人はキリストにはなることはできない。精神の貴族になることは、人が集団で生きる以上、どだい不可能なことなのである。

であるとすれば、貴族的精神の不可能性を逆説的に知らしめる聖書こそ、人と人とを和解させることを妨害している最大の原因であると云えるのであって、聖書がありうべくもない理想を説くことさえしなければ、そのほうが、実は人は理解し合えるのではないか。理想があるから人は苦しむのだ。

その聖書の欺瞞性を自ら明らかにしているものこそ、黙示録と呼ばれる新約聖書の一書である。

(以下、続く。)


新潮社
発売日:2012-01-20



文藝春秋
発売日:2012-08-03


講談社
発売日:2012-08-02

「カラマーゾフの兄弟」の続編を謳った小説であるが、駄作。「書かれざる続編をいまこそ完成させよう」という著者の意気込みだけが勇ましく(しかも、本の扉に自分の写真を使うだろうか?それを最初に見て嫌な予感がしたものだが)、仕上がった作品はとても一流とは云えない。

ミステリとしての面白みはあるかもしれない。最後の50ページほどはちょっとスリリングであったから。だが、「人物」があまりに貧相で、こんな薄っぺらな言動をする人たちだったろうかと「カラマーゾフ」の愛読者たちは皆呆れただろう。

もっとも、「妹」のほうの登場人物たちのほうがよりリアルであるかもしれない。「兄弟」でそうであるような、人があんなに長広舌を振るうことはありえないからだ。だが、それと同時に、「カラマーゾフ」の面白さは死んでしまう。

岩波書店
発売日:2001-04-20



福田和也が絶賛していたので読んだが駄作。章ごとに語り手が異なるのに、語り口がほとんど同じでは冷めてしまう。

この本を読んで家族の有難味がわかったという感想を述べる人がいるが、そんな読後感を得られる力は持っていない。ただただ異質で非現実的な家族がそこにあるだけである。分厚いのに読んで損しました。

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