2009年6月29日月曜日

T.S.エリオットとデルモア・シュワルツ


6月28日

坪内祐三『変死』を読了。じっくり読ませてもらいました。これで、出版されている坪内祐三の本のなかでまだ読んでいないのは……まだ4冊ぐらいあるようだ。意外に結構ある。結構読んできたのに、まだ結構残っているこの結構さの理由はなんだろうか。もう10年以上の(紙の上での)付き合いがあるというのに(トークショウで会ったことが実はあるけどね)。

で、この『変死』だけれども、最後の章が個人的には不要だった。第4章まではストレートな文章で書かれているので、突然個人語りが始まる最終章は書かれた時期も大きく違い、しっくりこない。本人の意向とは別に、第4章までで良かったのではなかろうかと思うのである。

他に読んだものでメモしておきたいのは、初学者のためのイギリス文学史のような英語の本。なんとはなしに開いて読んでみた。T.S.エリオットのところだけ。かの有名なエリオットの「荒地」は、
現代人を過去の伝統にルーツをもたない人として描く。現代の都市の憂鬱と醜悪によって、共通の信念とインスピレーションで結合するどんな集団にも所属意識をもてなくなったのが現代人である
と語る詩だ(と訳してみる)。当時、第一次大戦の悲惨な現実から目をそらす詩人が多かったなかで、エリオットは数少ない、戦争の混乱と絶望にぶつかった詩人と紹介されている。なるほどね。簡潔でわかりいい。

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』 1

覚書のために何回かに分けて内容を簡単にまとめておこう。

第1章は「デルモア・シュワルツ」。1913年生まれ。1937年に「夢の中で責任がはじまる」という短篇小説が発表されると、同世代の若者たちの支持を得て一躍有名に。だが本来詩人であるシュワルツが苦心の末に書き下ろした長篇詩「創世記」の失敗(わずか29歳)から坂を転がり始め、ハーバードの作文講師をしながら「アメリカの夢」という「偉大なアメリカ小説」(本書のポイント)の完成を志す。だが生活は堕落し、書き上げることのないまま、1966年に無残な死を迎えた。

「夢の中」が好評だったのは、ユダヤ移民とアメリカ国民とのどちらにも疎外感を感じる孤独さが若者たちの気持ちを代弁していると受け止められたからだった。だが、ある世代の訴えというようないささか政治的文脈で捉えられたのがひとつの不幸だった。シュワルツ自身がそのような文学者として自分を型にはめてしまったからである(そんな自分の立場をコミカルに描いた「スクリーノ」という優れた短篇が生前には公表されなかったことが象徴的だ)。ヨーロッパ文学を受け継ぐアメリカ文学者としての自負がさらに、従来の詩の形態を超えた新たな詩を求めさせた。そうして書き上げたのが「創世記」(前半部分)である。だが、叙情詩を得意としたシュワルツにとって、それは挑戦であっても、失敗作に終わらざるを得なかった。

挽回をはかったシュワルツは、「アメリカの夢」によって「偉大なアメリカ小説」を目指したが、「そのまさに夢物語というしかない実現不可能な夢を追い求めれば求めるほど、現実の生活に対するシュワルツのあせりは増していった」。妻に死なれ、ハーバードで講師をつとめて生活を維持していたものの、大学ではユダヤ人差別に遭遇するなど徐々に被害妄想に襲われ始めた。「すべてが八方塞がりだった」。そしてその頃、影響を受け始めたのが、フィッツジェラルドだった。若き日の栄光と悲惨な晩年を体現するフィッツジェラルドの影響は決定的だった。シュワルツは「アメリカの夢」を完成させることなく、アルコール中毒に悩まされながら、安ホテルで無残な死を迎えた。……

シュワルツはエリオットと無関係ではなかったりする。エリオットの詩に多大な影響を受け、「エリオット論」を執筆しようとしていた時期があった。だから、英語の本のエリオットの紹介部分を読んだわけなんだけど。

2009年6月28日日曜日

書評と書評される本


6月27日

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』の続きを読む。ところで思うのだけど、書評とか批評というものは独立して読むにたえることが必須の条件であるけれど、そんな書評ないし批評にもふたつの違いがあるのではなかろうか。つまり、紹介ないし引用された本も読みたくなるものと読みたくならないものと。

書評ないし批評がそれだけで読んでおもしろいのなら、あえて取り上げられた本も手にとって、つまり書評ないし批評の筆者の体験をなぞって、読む必要はわざわざない。でもなかには、取り上げられた本をこそ読みたくなる場合も多々あるものだ(そもそも書評はその役目を負っているのだから当然だ)。その違いは、筆者の書き方(力量)のせいであったり、取り上げられた本のクオリティのせいであったり、あるいはその両方がかかわっているということになるんだろう。で、今読んでいる書評ないし批評がどっちにあるのか、それをはじめて意識してみた。坪内祐三が『変死』で取り上げた、マイナーな作家たちの作品はぜひとも読みたいと思うのだ。

2009年6月27日土曜日

日本の私小説


6月26日

福田恆存のナントカという文章(「近代日本文学の系譜」)についてもう少し補足すると、二葉亭が学び取った文学はロシアの文学を中心としたヨーロッパ文学であって、その文学観と現実の日本社会との乖離はどうにも否定しようがなく、二葉亭にとって文学は文学、現実は現実であり、それゆえに「二重生活」を強いられていた、という。行動によって解決できないほど切迫した現実の問題はなく、だからこそ二葉亭は「浮雲」のあと、現実=官吏の道へと進んだ。この現実では解決されない問題こそが、文学の原動力となるのだ。その意味で、尾崎紅葉などとは違い、二葉亭は誠実であった。

まあ、なんとも恆存らしい語り口である。これを基準に二葉亭関係の本を読もう。ということで、内田魯庵の『思い出す人々』の続きを読む。さらに、本棚で『近代日本文学のすすめ』とかいう岩波文庫を見つけたので開いてみると、なにかと世間を騒がせる小谷野敦が二葉亭について書いていた。いわく、「浮雲」は日本で最初の男の恋の悩みを取り上げた小説であると。それ以前、男女の恋愛は相思相愛か女の恋わずらいが主題となることはあっても、男が恋に悩んでいるさまを描いた作品は日本になかったという。事実なら、これは画期的かもしれない。

さらにさらに、この文庫の巻頭には何人かの文学者らによる座談がおさめられていて、その中で加賀乙彦が面白いことを云っている(赤線が引いてあるのでもちろん一度読んだ文章ということになるのだけど…)。日本の近代文学が欧米のそれとは違うところは、孤独になりきれないことだ。この「孤独」は物理的なもので、つまり、ひとりになりきれる個室が日本にはなかった。家族や近所の付き合いが何かと日常を邪魔する。日本の作家は閉鎖的空間を持ち得なかったのだ。が、この閉鎖的空間を独自に捜し求めた先が、日本に特有の私小説ではなかったか。

ひとつの都市論にもなっていて記憶しておきたい言葉だね(一度読んだのに記憶してなかったし。なんとなく覚えてはいたのだけれど)。

2009年6月26日金曜日

小林秀雄と三島由紀夫の「声」  (続き


6月25日

昨日の続き。

で、江藤淳『離脱と回帰と』で何と云っていたかというと、三島由紀夫は「詩」の人ではなく「文字」の人だった。東大法学部から大蔵省に進んだ才能は「詩」を作ること、「声」を紡ぐこと(つまり歌、俳句)には向いていなかったという話。そういえば、福田和也が書いていたけども、江藤淳は誰かの声音を真似るのが抜群にうまかったという。「声」と「文字」。どっちかというと「文字」の人である私は何かが欠けていそうだ。

本棚から奥野建男『日本文学史』という新書を偶然見つけたので、二葉亭あたりの内容を読んでみたら、二葉亭の小説は、現実の政治的、社会的問題に鬱屈した人々に文学という刺激を与えたとかなんとか書いてあった。内田魯庵の言葉とはちょっと違っている。魯庵は『思い出す人々』で、二葉亭が「浮雲」で問うた「人生問題」は世間にほとんど無視されたというように書いている。さらに云えば、福田恆存が、二葉亭の小説は現実との深刻な対立のなかで生まれた、切実なものではなく、二葉亭にとって、芸術と現実はあくまで別個のものであった、つまり当時の文学に必然性はなかったと語っていたのをナントカという文で読んだばかりだ。でも、なんで私はこんなことにこだわっているのだろう…。

他に読んだのは坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』の半分くらいと『酒日記』のごく一部と江藤淳の例のエッセイ集。

坪内祐三のごくごく初期の原稿が収められている『変死』は、はじめて読んだけど、とても面白かった。むしろ今の文章(の内容)より面白いかもしれない。引用と( )の数々が極力省かれたストレートな文章が。個人的には、ツボのベストスリーに入る本だね。

そして江藤淳のほうはというと、木庭さん=中村光夫の回想が忘れられない。中村光夫がこんなに孤独だったなんて。しかも江藤淳は「平然と間違える人」というタイトルで中村光夫を書いているなんて。江藤さんって、怖いね(そういう意味じゃなくて)。

2009年6月25日木曜日

小林秀雄と三島由紀夫の「声」


6月24日

昨日の続き。魯庵の云う「文学士」とはどうやら大学の学問を修めたものに与えられる「学士」のことのように思う。ところで、坪内祐三『慶応三年…』では、東京大学の英文科を修了した「英文学士」としては夏目漱石が二人目だと書いてある(一人目は無論、逍遥ではないが)。これは正確であろう。とすると、坪内逍遥の「文学士」もまた、(英文科ではないにしろ)珍しいものだったかもしれない。

とすると(個人的な)謎は解けた。魯庵の執筆時、明治末年頃の学者の「博士」より明治20年当時の「学士」のほうがはるかに「重視」されたということに違いない。たぶん。

で、今日も魯庵『思い出す人々』を読む。あまり進まず。むしろ江藤淳『人と心と言葉』のほうを熱心に読んだ。追悼文の章で、例えば。

小林秀雄の訃報を聞いて、亡き小林の実声を懐かしみ、そもそも日本語は「文字」ではなく「言伝え」の言葉ではないかと考えていたら、小林秀雄の講演を収録したカセットテープが登場して、こりゃいい、という話。他にも(というよりこっちの方が印象的だったりして。つまり、亡き山川方夫との会話を回想する文がとても素晴らしい。「君の漱石論はひとつしかないのだから」という山川の言葉が)読み応えのある文があったが、小林秀雄の声について今書いているうちにもっと大事なことを思い出した。

その後に本棚から偶然ひっぱりだした同じ江藤淳『離脱と回帰と』とかいう本を読んでいたら、昭和天皇の時代を振り返って、江藤淳が三島由紀夫の「声」について語っていた(対談本。相手は富岡幸一郎)。なんて語っていたかというと……、さっきまで覚えていたのに忘れた!しまった!!

2009年6月24日水曜日

さらに魯庵


6月23日

内田魯庵『思い出す人々』を読み始める。二葉亭四迷を語る文がアツイ。

ところで坪内逍遥が話題になった理由として、本文中に「今の博士よりも遥にヨリ以上重視された文学士の肩書」と書いてあるけど、どういうことだろう。魯庵は昨日取り上げたナントカという文でも「文学士」の影響力を語っていた。ここで、小説家と文学士は全く違うものとして書かれている。また調べてみよう。

2009年6月23日火曜日

魯庵


6月22日

ようやくにして坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり』を読了。連載を途中で終えたことについて本人は「飽きたから」と書いているが、読むほうもときどき飽きてしまった。明治時代の文学に特別な関心がないと少しきついところがあると思う。文学史、広く云って歴史本というのは、読者に飽きさせないのも大変なのだなと思うと同時に、いちいち引用しないけれど、本書は振り返れば十分読み応えのある内容であったのは明言しておこう。

なぜか気になって内田魯庵のナントカという短文を読む。明治20年頃から執筆時の明治45年までの間に、文学の地位がどう変わったか、文学者の意識はいかに「進歩」したかの話。明治時代の前半は江戸時代の空気を引きずって文学は余興にすぎなかったものの、坪内逍遥をはじめとした文学者の努力によって明治末年にはその地位も向上し、社会に認められるようになった(それは文学者自身が文学で身をたてることができるようになったということ)。けれども、まだまだ足りない、もっと権威が認められなければならないと魯庵は云う。

事実、大正、昭和と文学者の地位は高くなるばかりであった(ピークはどの時点だろう?)。が、文学の存在理由がそれに反比例して消失していったのも事実ではないか。いやもっとも、いったい文学の存在理由なんて、そもそもあったのだろうか。なんてことを思いつつ、魯庵の文章がとてもよかったと最後に。

2009年6月20日土曜日

江藤淳のエッセイ


6月19日

読みかけで半年ほど放っておいた坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり』の続きを読む。残り100ページ。けっこう飽きているのだが、なんとか最後まで読まないと。

最近毎夜軽く読んでいるのは江藤淳のエッセイ集『人と心と言葉』。ふだんの出来事なんかを軽く書いているエッセイばかりなんだけど、ひとつのエッセイにかならずひとつ、江藤淳のメッセージのようなものがあって読後感がいい。追悼文も集めてあって、とくに中村光夫の思い出が印象的。晩年の、彼の孤独感がよく伝わってくる。

2009年6月19日金曜日

坪内祐三の『文学を探せ』を読み終えて


6月18日

寝る直前に寝ぼけながら坪内祐三『文学を探せ』を読了。本書の内容について読者は「独断的な、余りに独断的な」と思えるかもしれないが、しごく本気で正攻法の批評だと思う。馴れ合いとすっとぼけ、硬直と閉鎖性が蔓延する今の文芸誌について、まさしく文芸誌の誌面でそのような指摘をしたのは立派。

それとは別に、いくつもの面白い本を教えてもらった。例えば、沢木耕太郎の初期エッセイ。沢木ノンフィクションにあまり関心がなかったのに、これは読み応えがありそうだ(特にフィクションとノンフィクションの違いを語る語り口なんてもう)。さらに、八木義徳『私の文学』や鶴田欣也『越境者が読んだ近代日本文学』、出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』などなど。雑誌の掲載時にはときどきしか読んでいなかったこの連載、いやいや想像以上に面白かった。

2009年6月17日水曜日

辰野親子


6月17日

坪内祐三『文学を探せ』を読む。日本とフランス文学という文脈で辰野隆という名がでてきた。東大の法学部を卒業しながらフランス文学を志して東大の文学部に入り、フランス文学者となったという人。坪内祐三が引用している辰野話がとても興味をそそられるのだが、ところでその父親の名は辰野金吾というらしい。「明治を代表する建築家」という表記が気になったものの、それ以上は興味を覚えなかったが。…

新刊の『文藝春秋』7月号を適当に読んでいたら、この辰野金吾の名前が突然でてきて驚いた。驚いたのは、高橋是清の来歴を紹介する内容でだったから。高橋是清は世界を渡り歩いたあと日本銀行に入行したとき、当初は銀行業務に関わることができず、建築所の事務の仕事ををさせられたという。その事務所での是清の上司が辰野金吾だったらしい。

辰野金吾と辰野隆の親子に俄然、注目だね。

2009年6月13日土曜日

第何次ツボブーム


6月13日

再開。

ここ1、2ヶ月ほど、何度目かのツボブーム。坪内祐三の本を本棚から取り出しては拾い読み、読んでは本棚に戻すの繰り返し。例えば、そうやって昨日読了したのが『三茶日記』。これまで何度も適当なところをめくって読んでいたけれど、最後まで通読したのはたぶんこれが初めて。この本はおよそツボちゃんが入退院する時期までの読書・古本買い日記で、一般読者にはついていけない本や著者が次々と登場する。(以下、細かく書こうと思ったけど、気力を失ったので終了。一気に書かないと駄目だね。)