2009年6月26日金曜日

小林秀雄と三島由紀夫の「声」  (続き


6月25日

昨日の続き。

で、江藤淳『離脱と回帰と』で何と云っていたかというと、三島由紀夫は「詩」の人ではなく「文字」の人だった。東大法学部から大蔵省に進んだ才能は「詩」を作ること、「声」を紡ぐこと(つまり歌、俳句)には向いていなかったという話。そういえば、福田和也が書いていたけども、江藤淳は誰かの声音を真似るのが抜群にうまかったという。「声」と「文字」。どっちかというと「文字」の人である私は何かが欠けていそうだ。

本棚から奥野建男『日本文学史』という新書を偶然見つけたので、二葉亭あたりの内容を読んでみたら、二葉亭の小説は、現実の政治的、社会的問題に鬱屈した人々に文学という刺激を与えたとかなんとか書いてあった。内田魯庵の言葉とはちょっと違っている。魯庵は『思い出す人々』で、二葉亭が「浮雲」で問うた「人生問題」は世間にほとんど無視されたというように書いている。さらに云えば、福田恆存が、二葉亭の小説は現実との深刻な対立のなかで生まれた、切実なものではなく、二葉亭にとって、芸術と現実はあくまで別個のものであった、つまり当時の文学に必然性はなかったと語っていたのをナントカという文で読んだばかりだ。でも、なんで私はこんなことにこだわっているのだろう…。

他に読んだのは坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』の半分くらいと『酒日記』のごく一部と江藤淳の例のエッセイ集。

坪内祐三のごくごく初期の原稿が収められている『変死』は、はじめて読んだけど、とても面白かった。むしろ今の文章(の内容)より面白いかもしれない。引用と( )の数々が極力省かれたストレートな文章が。個人的には、ツボのベストスリーに入る本だね。

そして江藤淳のほうはというと、木庭さん=中村光夫の回想が忘れられない。中村光夫がこんなに孤独だったなんて。しかも江藤淳は「平然と間違える人」というタイトルで中村光夫を書いているなんて。江藤さんって、怖いね(そういう意味じゃなくて)。

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