7月某日
この間購入したふたつの日記をちょくちょく開いて読んでいるけども、戦前(戦中)の日記と聞いて何よりもまず読みたくなる日付というのが誰にでもあると思う(いや、ごく一部の人だけか?)。おそらく一番人気は敗戦の日だろうけど、自分がすぐさま開いたのが二・二六事件の日。
この日から数日の宮中ならびに政府内部の混乱はそれはもうひどいもので、秩序がまさしく崩壊しつつある雰囲気たっぷりなのである。そんな内部の赤裸々が面白くないわけがない。しかも当時、侍従を勤めていた入江相政の日記とあれば。
というわけで『入江相政日記』の1936年2月26日の項を読んでみた。と云いたいところだが、実はこの数日前の日記のほうが面白かったのである。面白いというか印象的だった。
二・二六事件の三日前の記述。この日、美濃部達吉が右翼の銃撃に遭うという事件があり、それを知った入江が事態をかなり憂慮していることが窺える。右翼人士を活気づかせるからである。事実、右翼を刺激しないよう事件は翌年まで公にされなかったという(解説)。
二日前の記述では、入江が小堀杏奴の「晩年の父」を読んだとある。このあたりが日記の面白さで、世情が不穏になっても個人の生活は普通に営まれているのである。杏奴は森鴎外の次女で、森茉莉の妹にあたる。
そういえば森茉莉のエッセイに杏奴のことが(何度も)書かれていて、例えば茉莉が東京女子高等師範学校附属小学校の5年生だか6年生の頃、別の小学校に通っていた杏奴が教師とともに突然、教室に現れた。杏奴が騒いで抑えきれないため、教師が姉の学校までわざわざ連れてきたというのだ。連れてこられた杏奴は、茉莉の席の隣にちょこなんと座る。そのとき、茉莉は「なんでこんな妹が生まれてしまったのだろう」と思ったという。
横道にそれたけど(英語で「横道にそれる」はwanderというのを今日知った)杏奴の「晩年の父」と二・二六事件が同時代であるということを体感させてくれるのも、日記の魅力なのである(つまり鴎外はとっくに死んでいるわけである)。
7月19日
買いそびれていた坪内祐三・福田和也対談集『無礼講』をようやく買って、ちょびちょび読んでいる。雑誌初出時に読み逃した回が結構あるため、初見のものが結構あるわけである。ある回で、坪内祐三が「自分が書いてきたものはすべて自伝か日記だ」と云っていた。たしかにそうかもしれない。というか、そうとしか考えられないかもしれない。そう、考えると、自分語りも違和感はないし、そういうスタイルなのである。でも『変死するアメリカ作家たち』の最終章だけは、やっぱり納得いかない。
まだ終わっていない本のひとつが内田魯庵『思い出す人々』で、ようやく3分の2を終えたところか。ますます面白い。この本はもっと早くに読むべきだった。奥付や記憶を参考にするとこれを購入したのは2001年頃だが、8年もほうっておいたことが悔やまれてならない。だって、これほどためになる明治文学案内があるだろうかという面白さなのだから。
学校の教科書に漱石とか鴎外とかの文章を載せても読みにくい、つまらないだけで、明治文学への関心を招き寄せることなんてもはやどだい不可能なのだから(自分だってそうだった)、魯庵のこのエッセイ(回想文)を代わりに読ませれば、アツイ明治の作家たちの生き生きとした姿を体験できて、よっぽど読者を獲得できるだろうに。教育関係者はもっと考えるべき。